ゆたかさ=「広さ」×「深さ」

人生で二度、豊かさについて考えたことがある。

一度目は大学生の終盤。

「部内でつきあうのって、なんか嫌なんですよね」

部内恋愛カップルが増えてきた頃、後輩が放った一言がきっかけだった。
聞くと、外にはもっと広い世界があっていろんな人がいるのに、それを知らずに同じ趣味を持つ者同士で付き合うなんてもったいないというような主旨だった。

彼にとって豊かさとは、世界の「広さ」なのだと、そのときわたしは理解した。

ほどなくして、わたしはお世話になっているご夫婦のパーティーに招かれる。
旦那さんの還暦を祝う会だった。
おふたりは共通の趣味を持っておられ、その場で披露してくださった。
それがきっかけで出会い、結婚し、一緒に歩んで数十年、共に深めてこられたその姿に感銘を受けた。

わたしは「深さ」もまた、豊かさだと知った。

こうして、大学生のわたしは豊かさについて「広さ」と「深さ」という基準があることを知った。

そして、あのときから数年が経った今。
#ゆたかさって何だろう
この企画に参加して、人生で二度目の、豊かさについて考える時間を送っている。

ゆたかさって、何だろう。

それは、「広さ」と「深さ」で量られる、ある種の尺度のようなものなのではないか。

そして、ゆたかさが「広さ」と「深さ」で量られるモノだとしたら、
果たして今のわたしの生活は、わたしの人生は、ゆたかと言えるのだろうか。

大学生のとき、わたしはフットワークの軽い人種だった。
興味があれば、何だってどこにだって顔を出した。
今思えば、4年間という限られた時間の中に何もかもをぎゅぎゅぎゅっと詰め込みたかったのかもしれない。

そうしてみた世界は確かに広かった。
そして、わたしの生活に彩りを与えてくれた。

対して社会人になったわたしは、大学生の頃にもっていた若さとフットワークの軽さを失ってしまった。
でも反対に、手に入れたものもある。それが、お金と時間。

お金を、自分の趣味に注ぎ込めるようになった。手にする前より、ずっと突っ込んだ体験や知見を得られるようになった。
大学生活の大半を費やしていた部活から離れて、時間に余裕ができた。それはもう、持て余すほどに。その時間を使ってわたしは、お料理やお茶のお稽古に通い始めた。どちらもまだまだひよっこだけど、一生つきあい続けていきたい「こと」との出会いだと思っている。

振り返って思うのは、「広さ」を求めた大学時代も、「深さ」を覗き始めた社会人になってからの生活も、わたしの生活は間違いなく「ゆたか」であるということ。

そして、もうひとつ。

わたしのゆたかさは常に、わたしの周りの素敵な人たちと共にある。

ひとつ、紹介したいエピソードがある。
コロナ禍でおうち時間を強いられたとき、普段ほとんど家にいないわたしは正直、自分が適応できるのかが心配だった。
それは、わたしの友人たちも同じだった。そうして始まったのが、毎週末のおうち時間配信。お昼を過ぎると、誰かがグループ通話を開始する。お料理をしたり、断捨離をしたり、お化粧に筋トレ、ゲーム。喋ったり喋らなかったり、ゆるく流れる時間がこの期間、わたしにとって救いだった。
いろいろなことが制限されるなかで、人との繋がりを保てるということがどれだけ自分の精神的な安定に寄与するかを実感した。(賛否はあると思うけど)

この友人たちとの繋がりを、わたしはまちがいなく「ゆたか」だと思うのだ。

実はこの友人たちとは、高校の時からもう十数年のつきあい。10代の頃は若さゆえに喧嘩をしたこともあった。そこから、くっついたり離れたりを経てはやもう十数年。それぞれがそれぞれの場所でしっかり根を張っていて、だけどわたしたちにはここがあるから、あともうちょっと頑張れる。ほんの少し、大胆にもなれる。どうしてもしんどかったら、逃げ出すことだってできる。
この友人たちは、いつだって、見守ってくれて、背中を押してくれて、応援してくれる。怒られたり厳しい指摘をくれたりすることだってある。そう、愛ゆえに。言うなれば家族みたいな存在だなあと思っている。

ゆたかさが、「広さ」と「深さ」で量られて、それ自体が尺度のようなモノだとしたら。
わたしの人生はこれからも愛する人たちとの関係を礎に、「広さ」と「深さ」をバランスよく積み重ねたものでありたい。

そうやって、豊かな人生を築いていきたいと思うのだ。



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