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「ヤクソク」

私はイーサン。韓国人なの。

休み時間のチャイムが鳴ると同時にみんなが校庭に駆け出して、教室で一人呆然としていた私に声を掛けてくれたのは彼女だった。

もしかしたらもっと沢山のことを話してくれていたのかもしれないが、拙い英語力で私が理解できたのは、彼女の名前と「韓国人」ということだけだった。

よろしく、と少し緊張気味に笑う彼女。

自己紹介は昨日の夜母と何度も練習済みだったけれど、いざ実践となると通じるかどうか不安でいっぱいになって、なんとかナイストゥーミーチューだけを喉から絞り出した。私が初めて友達に話した英語だ。


彼女との出会いは小学5年生の春。もう12年も前になる。

父の仕事の都合で1年間アメリカに住むことになった。
転校した4月1日は、日本にとっては正月に匹敵して多くの新しい始まりを迎える日だけれど、アメリカの小さな街の小学校ではただのエイプリルフールだ。挨拶もままならない英語力で学期途中に放り込まれるというもはやエイプリルフールであってほしいような出来事に、これからどうやって生きていこうかと泣きそうになった。

そんな私に声をかけてくれたイーサン。少なくとも他のクラスメイトよりはなんとなく見た目も自分と似ている彼女の存在に、縋るように日々を過ごした。

近所に住んでいることも分かり、彼女は一人では何もできない私のことを登校から下校まで付きっきりで助けてくれた。今思うと、ほとんど言葉を喋らない人と一日中一緒にいるのはどれだけ退屈なのだろう、彼女の忍耐力に感銘を受ける。

休み時間には美術室で絵を描いたり、音楽室でピアノを弾いたり、放課後には図書館で一緒に宿題をした。学校から帰って、まだダンボールが積み上がるアパートの壁に母が真っ先に貼った世界地図をぼんやりと見つめていると、日本と韓国はほとんど同じ場所に浮かんでいるような気がした。

秋頃から、私とイーサンは韓国語と日本語の教え合いを始めた。

紙に英語で書いた言葉の下に、私は日本語を書いてローマ字で読み方を加え、イーサンも韓国語と読み方を加えた。あいさつ、自己紹介、数字の読み方から始まった紙の上のレッスンはそのうち手紙交換に変わっていった。

クラスで自分の話した英語が誰にも伝わらなくても、手紙に書いた韓国語をイーサンに読める!と言ってもらえたから毎日学校に行けた。インターネットの翻訳機能を使って、四角と丸と棒を組み合わせたパズルみたいなハングルを、もちろん仕組みなんて理解しないまま一生懸命紙に写した。

イーサンは、本当に同い年なのかを疑うくらい沢山のことを知っていて、韓国語と日本語には似た発音の単語があることを教えてくれたのも彼女だった。新聞、高速道路、計算。沢山の単語を日本語で紙に書いて渡してくれた。約束もそのうちの1つだ。

「約束」は韓国語でも「ヤクソク」。

それを知ってから私たちは、何かを約束するときは決まって最後に「ヤクソク」と付けるようになった。


気づけばあっという間にやってきた1年の終わり。
せっかくアメリカにいるんだから少しくらい学校を休んで旅行にでも行こうかという親の誘いを断って、なんだかんだ帰国日のギリギリまで毎日学校に通った。
私の登校最終日、イーサンは日本語の手紙をくれた。

「このご恩は一生涯決して忘れません。また会いましょう。約束。」

翻訳機の少し不自然な日本語の手紙は、こう締めくくられていた。また、の「ま」の最後が、がたがた揺れて、逆方向に曲がっていた。


あれから12年経って、私たちは遠く離れた街で別々の人生を歩んでいる。

帰国した直後は頻繁に連絡をとりあっていたものの、次第に毎年フェイスブックに知らされて、お互いの誕生日を祝うだけになった。

半年だけ韓国語の授業を取ってみたり、韓国好きの友達に勧められて韓国ドラマを見たりしているうちに、知っている韓国語の単語が少しだけ増えた。

今でもあの言葉を教え合った手紙を引き出しから出して、彼女と過ごした1年間を思い出す。小さく折りたたまれた紙の皺を伸ばしても、逆方向に曲がった「ま」は、何年たってもそのままだ。

また会おうね。ヤクソク。

5年後、10年後かもしれない。
アメリカ、韓国、日本、いや全く違う場所かもしれない。

この言葉を聞く度に、私はまた彼女に会いたくなる。

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