相方がぼろぼろ泣いた映画「ルックバック」、泣かなかった自分は実は

とはいっても良い話だし完成度高いし多くの方が感動で泣くのはよくわかる。
私の特殊事情が泣きを許さなかっただけである。

このnoteを書こうと思ったのは以下のnoteを拝読したからである。

どちらも私は納得できるnoteでした。

そして私が泣かなかったのは、私が藤野ではなく京本の立場だったからである。
その上私に絡んだのは藤野のような才能があり京本の才能を認める素直さを持った漫画家や絵師の卵ではなく、底辺雑魚モブ絵師(複数)、しかも底辺というだけでなく自己の下手さを認めたくないがためにストーカーと化するというある種の逸材ばかりだったからである。
(この辺の話は過去noteに散々書いてきて数ありすぎなのでいちいちリンクは貼らない)

という経験のもと藤野を見ると、鼻もちならないみずからをたのみすぎるあの言動にまずストーカー底辺雑魚モブ絵師を思い出してしまい「うわぁ…」とひたすらドン引きしてしまった。
その後、それも若さゆえだよなあと遠くぼんやり自らを省みる、という繰り返しになるのだった。

ただ、藤野はストーカー底辺雑魚モブ絵師とは決定的に違う点がある。
彼女は露悪的と言っていいほどデカい(妄想一歩手前の)目標をうそぶいたりはする。 
それが黒歴史を持つ自分などには大変痛い言動に見えるのは確かだ。
しかし藤野は途中で2回ほど折れたにしてもちゃんと正当な努力をした(私に絡んだ底辺雑魚モブ絵師と違い、画力向上のために他の絵師へのストーカーで盗むのではなくきちんと独学を重ねている)
さらに「絵」ではなく「漫画」の才能があった(逆に京本の才能は「絵」であり「漫画」ではない)
そして(京本が先に藤野の「漫画」の才能に憧れてファン宣言したことが大きいが)藤野はちゃんと京本の才能を口には直接出さないにしても認めていた。
ペンネームも藤野と京本の2人の名前を織り込んで漫画家として活動をし、実際順調にステップアップした。
ただ、京本が別の道を歩む意思を見せると素直ではないので支配的な発言が飛び出すものの(これも若さゆえ)、最終的には折れて京本の自立を受け入れる形にはなった。

これらは底辺雑魚モブ絵師には見られない行動パターンである。
正当な努力ができ、
漫画の才能が実際にあり、
相手の才能を認めることができ(口には出さずとも行動で示した)、
相手の立場を尊重して自分が折れた、
これらが底辺雑魚モブ絵師にはなかった。
正当な努力の代わりに相手の絵をストーキングし(後に本物のストーカーと化した者もいる)、
漫画や絵の才能は当然凡百で、
口では綺麗事を言い、
相手より自分が劣るという事実を受け入れたくないがためにストーキングし、
最終的には相手を自分のお仲間と結託して相手を抹殺することでその事実も揉み消そうとした。

一方、藤野は「京本の才能を『口には直接出さない』にしても認めていた」のではあるが、「口に出さない」ことで自分のプライドを保っていた面もあるように見えた。
藤野のキャラクター設定からすればそれは仕方のないことではあるが、それ故に藤野と京本が対等な立場で実は描かれてないということが気になった。
なので、連載を持ちかけられたという最初の絶頂期に京本が藤野の手を離したことは当然の成り行きと感じた。

最初に書いた通り、私は主に京本の立場の方がより理解できたので、2人の立場の非対称性が鑑賞中ずっと気になっていた。
言うなれば、2人の関係は藤野が主で京本が従という主従関係の上で成り立っていた。
ことさらな極論を言うと藤野が主人で京本が奴隷とも取れる、対等さを感じない関係だった,

元々藤野は脆い部分もあるのだろうとも思うが、その反動形成とも取れる大口叩きとデカい態度、ウエメセムーブと虚勢が目立つ。
先生と呼ばれて本物の尊敬の眼差しで見られ、サインまでねだられたことで天にも昇らんばかりの浮かれ方で雨の中をはしゃいだ例のシーンでもわかる通り陰ではきちんと年相応のはしゃぎ方もするが、それは人前では表さない。

それと同じく、2人が共著で漫画を描いて楽しく過ごしていた時期に、藤野は京本へのリスペクトを京本自身に表したことがあるとは思えないのだ。
もしそんな一言があればきっと作中にセリフとして描かれていたはずだ。
と考えると、やはり藤野は本当は京本を頼りにしてた部分があるのに、そうとは態度にも言葉にも表していなかったと思うのだ。

そして京本は自分の手が遅いのを気にしていた。
うまくなれば早くなるとも言っていた。
藤野は自分もさらにうまくなって京本を引っ張っていくという趣旨のセリフを言っていた。

実際2人が手を繋いで街を楽しそうに歩くシーンは常に藤野が先だった。
藤野が京本の手を引いて先導していた。
その間藤野は後ろを振り向かなかったし、京本は藤野の背中を見ていた。

※後日2回目の鑑賞をしたので追記。
↑の手繋ぎのシーンで、実は藤野は京本を振り返ってた。どうやら私の中では振り返った藤野視点で見る京本の極端なパースのつき方の印象で「藤野が京本をとにかく自分の後ろについてくる付属物扱いしてる(ように私には見えた)印象」で上書きされていたようである。

やはりこの2人は対等ではないのだなあと私は思った。
なんらかの形での破綻がこの後来ることを予感した。
人間同士としてはバランスが悪すぎる関係だからだ。
いくら楽しくても対等ではない。
それに人間が耐えられるわけがないのだ。
封建時代の人間でもない限りは。
ましてや自分の中に湧く創作の泉を持つ者であればなおのこと。
そして案の定、京本は自分が藤野の背中を追いかけるだけの存在でいることに耐えられなくなり、自立を望んだのだ。

だから、この2人の道が分かたれたシーンでは、藤野は非常に居丈高で支配的なセリフを次々と繰り出した。
それは、漫画を描く上では京本を非常に頼りにしてるにも関わらず一切それを京本に告げていないがために余計に鋭い蠍の毒針となった(季節の流れや時間の経過の中で蠍座が夜空に浮かぶシーンがあり、私がそれが何らかの暗喩だと判断したことは前回も書いた通りである)

※後日2回目の鑑賞をしたので追記。
↑の蠍座のシーンは季節の移り変わりじゃなくてまさにこの京本が藤野と袂をわかつシーンの最後だった。シーンの記憶の順番を覚え間違えていた。ということはやはりこの蠍は「毒針で刺した」ことを表しているのではないか。とはいえそれでもやはり「銀河鉄道の夜」の「蠍の火」もイメージ的にオーバーラップするのは私の気のせいだろうか。

また、それを告げていなかったから京本は(まだ全然藤野の役に立つには自分が力不足だと感じていて)自分がもっと上手く(手が早く)なって藤野の役に立ちたいと考えたのではなかろうか。

言い換えると、本当は相思相愛の2人なのに、それを告げたのは京本だけである。
藤野は虚勢張りだし素直ではないので京本にはそれを伝えていない。
一見するとこの関係は京本の片思いということになってしまう。
そういうバランスの悪さである。
それなのに藤野は京本が自分のそばにいて一緒に漫画の背景を描き続けてくれることを望んでいたのだ。
それが当たり前だとも思っていた。
だから自分の力で歩きたくなった京本に次々に毒親張りの支配的なセリフで京本を縛ろうと試みた。

ただ、藤野の虚勢はあくまで虚勢なので、京本の本物の決心には歯が立たなかった。
そして表面的な態度ほどに自分勝手でもなかった。
ただ素直じゃなかったし、対等ではない関係を固定的にしていながらその自覚がなかった。

そもそも、藤野は非常に要領がよく、漫画も描けるが空手もできて、友達関係も漫画に集中するといぶかられたり卒業を促されたりするくらいうまくいっていた。
彼女の要領のよさは、連載中に思うレベルのアシスタントが見つからない苛立ちを隠しつつも実にそつなく社会人としてのマナーをかっちり守りながら編集と話すシーンにも現れていた。
藤野は漫画家にならなくとも普通に楽しく生きられるタイプの人間だと思った。
ただ、京本と出会ったことで抜きがたく漫画の道へ進むことにはなったけれども。

片や京本はというと、人間が怖くて小中学校は引きこもりで藤野と出会わなければ家の外にも出なかった。
肉親以外ではおそらく藤野しか親しい人間がいなかった。
他に何もできなくてひたすら絵を描いているだけだった。

私はやはり京本の側の人間である。
藤野のようにスポーツもできないし社交的にもなれないし社会人としてそつなく振る舞うこともできない、もちろん彼女のようにアイデアにも溢れてないしストーリーも作れないので漫画など描けはしない。
他に何も持たない極めて偏向した人間、それが京本であった。

唯一京本の私と違う点はというと彼女は驚くほど純朴で素直に藤野を尊敬していることである。

こんな純朴な人間が今どきいるのだろうか、いや、いないだろ?という部分がまずあった。
さらに藤野のようになんでもこなせる上に漫画まで描いてあまつさえヒットも飛ばしてしまう、そして口には出さねども京本の絵の才能を認めてるし恃みにもしていた、と。

現実的にそんなうまいこといかないよなあ…というのが絵を描いてはすぐに底辺雑魚モブ絵師に目をつけられてはストーキングに常に遭っていた私には思えた。
そんな簡単に相手をリスペクト、などという崇高な精神を持ち合わせた絵描きばかりではない、どころか口だけリスペクトを語りつつ裏ではマウント取り合いという修羅の国、というのが私の知る同人絵描きの世界である。
↓参考

という感じだったので、いい話なんだけど現実との乖離かいり眩暈めまいを覚えた。
この映画が悪いわけではない。
私の経験が特殊なだけである。
そして藤野が主人公なので、藤野視点ではこの2人の関係の非対称性は見えないということなのだと思う。

そして現実の、私が見たことのある同人絵師は誰一人京本タイプはいなかったし、ましてや折れかけてもちゃんと立ち直り、大口は叩いてもその通りに実行する藤野タイプもまったくいなかった。

大口叩こうとそれを実行できれば本物である。
こっそり他人の作品を常にストーキングしながら自作として発表する厚顔無恥に比べれば本物の天才である。
ただ、いかりのにがさまた青さ。
対等ではない関係に気づこうともしなかった藤野と京本の関係はどんな形であろうと一旦破綻を迎えたことは間違いないと思う。

そしてこの映画「ルックバック」、これを見て泣かなかった私はというと、京本タイプでありながら、他の絵師にストーキングされ続け心を病んだ、実は京本を襲った犯人そのものとも言えるのであった。




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