シニカル・トポロジー・(One)アワー〜考察:映画「ルックバック」藤野は犯人を生み出したのか?
またしても映画「ルックバック」である。
今回はレビューではなく考察である。
ちょっとショッキングなタイトルをつけてしまったかもしれない。
しかし映画本編も観た方はご存知の通り
SF的またはサイコロジカルな仕掛けがある
ので、お許しいただきたいと思う。
「はじめにシニックありき。」
映画「ルックバック」の感想を広く浅く眺めてみると、だいたい「2人の友情」「クリエイターに刺さる」「なぜ描き続けるのか(クリエイターのモチベーション)」あたりに収束しているように見える。
駄菓子菓子。
導入部を思い起こしてみよう。
月の輝く夜の天空から螺旋を描いて視点が藤野の部屋まで落ちてくる。
部屋では4コマを描き上げるのに藤野が呻吟している。
場面切り替わって学校でスカした表情で学年新聞を余裕綽々で動作にタメを作りながら手に取り、己の4コマ漫画の評判を心地よく耳に流れてくるBGMのように聞き流しつつ堪能し、さらに余裕たっぷりの態度で4コマ漫画創作に大した労力もかからなかったことを強調する。
ダメ押しで運動神経も褒められ、いずれの道に進んでも一角の大人物になることを藤野自身が(どこまで本気か不明だが周囲も)疑いの余地を持っていないことを描写している。
そんな絶頂時に先生に呼ばれた藤野は4コマ漫画の1枠を京本なる謎の人物に譲ることを提案され、「私は別にいいですけど」という心にもないクッション言葉を小賢しく置いた上で(このクッション言葉は京本と別れた後のアシスタント派遣依頼の編集者とのやり取りでも見られる)、
「漫画を描くのは素人には難しい」
「学校にも来れない軟弱者が漫画描けますかねえ?」
と放言する。
しかし次の学年新聞が配られた時に藤野の表情は一変する。
「アガッ」とか「ハガッ」とか「ハゲッ」とでも声が漏れてそうな大口と死んだ目で驚愕する藤野の顔。
作麼生。
…ここで描写されているものは一体何であるのか?
説破。
幼児的万能感を外部から強制終了され、現実の己の立ち位置を否応なしに突きつけられた瞬間である。
そしてこの驚愕する藤野の表情は他のシーンと異なり、極めてシニカルかつコミカルな大袈裟さを伴った描写であることに思い至る。
つまり、他のシーンとトーンが明らかに異なるのである。
正確に言えば、他とやや異なるコミカルなシーンはもうひとつあって、それは京本が「藤野先生」に漫画の賞に応募する漫画を「見たい見たい見たい見たい」と詰め寄るシーンである。
しかし冒頭の藤野の絶頂から奈落への墜落シーンは、コミカルなだけでなく、ことのほかひんやりしたシニカルな視点で描かれているように私には感じられた。
そしてこれらシニカルおよびコミカル以外のシーンはクライマックスを除き、概ねクールな態度をキープしたい藤野と、無自覚に一歩引いた態度の京本による、ダイナミックレンジの振幅の小さな、言い換えると繊細な表情の描写と素っ気ないとも思えるほど言葉の少ない、代わりに視覚で見せる淡々とした描写が大半を占める。
そしてご存知の通り藤野にとっては不意打ちのような別れと悲劇的な突発事件によりストーリーは暗転する。
創作のモチベを失った藤野は京本の遺した部屋を訪れる。
しかしそれによって「死諸葛走生仲達」、いや、死せる京本の痕跡によって生きる藤野は再び立ち上がり、走(らされ)る力の源を再発見した。
つまり、この映画のストーリーの最初期で「この作品はシニカルな視点で描いているよ」というフラグが立てられていたと私は考える。
そのシニカルさで見た藤野の絶頂からドン底へ叩き落とされるギャップがあまりに大きいが故にコミカルなギャグシーンとなるのである(笑いはギャップ、とよく言われる通り)
ただ、黒歴史が思い当たりすぎて、クリエイターには笑えないシーンでもあると思うのだが…。
しかし、ストーリーが進んでいくにつれシニカルさはなりを潜め、一見ストレートな青春ストーリーの態様をなしていく。
で、概ね人口に膾炙しているのはこのストレートな青春ストーリーの部分であるように見える。
だが、融通のきかない私は最初に立てられたシニカルフラグを手放せなかったのであった。
落ちた蠍座
最初に映画「ルックバック」について書いたnoteで夜空に浮かぶ蠍座について触れたのだが、私の読んだ限りの「ルックバック」レビューではその蠍座に言及する人が誰もいないようである(なんでや…)
なので、私の気のせいか妄想なのかと自らの記憶を疑う羽目になり、その確認もあって2回目の映画鑑賞となった。
結果、蠍座のシーンは間違いなくあった。
「がらんとした桔梗いろの空」の下、シルエットで言い争う2人の決裂シーンの後である。
「濃い鋼青の空」に大きな蠍座が横たわり……ガクッと落ちた。
え、ガクッと落ちたよ蠍座。
たぶん、初鑑賞時もエッと思ったのだと思うが、サクサクとストーリーが先に進み流れていくのを追うのに精一杯で考証する暇もなく何だあの蠍座は!?という印象だけが記憶に残ったのだろう。
そもそも本来、夜空の星座はガクッと落ちない。
なのに監督はガクッと蠍を落とした。
本来あり得ない形で、おそらく意図的に。
このあからさまな演出に、なんの意図もないとは思えないのだが、如何であろうか。
この蠍座の演出の解釈は人によりいろいろあるとは思う。
ちなみに私の解釈は前述のnoteに記載済みである。
冒頭のシニカルフラグの影響でまず1.の解釈になったと思われる。
この解釈を念頭に置きつつ次の章に先を進める。
「母さん、ぼくのあの悪意、どうしたでせうね?」
私は前回の超辛口レビューでこう書いた。
冒頭のシニカルフラグが手放せなかった私はシニカルレイヤーを透過で上に載せたままこの映画を鑑賞していた。
なので上記のような超辛口レビューになったのだと思う。
ここで前章の「落ちた蠍座」の1.の解釈をもう一度掲載する。
「藤野の中に(京本の藤野への純粋な尊敬などでとりあえず雲散霧消したかに見える)コンプレックスの毒の針を胸の奥にまだ隠し持っており、その毒針を刺した暗喩」
しかし、こうは書いたものの、藤野がコンプを未だ持ち続けている描写は一切ない(というかこの作品にキャラクターの具体的な内面描写は一切ない)
そしてことの始まりであるダークな気持ちから描いた4コマ漫画も、ストーリー中ではラスト直前まで再登場しない。
ないのだが、あの「がらんとした桔梗いろの空」の下で藤野が京本に投げつけた言葉はあまりに峻烈だった。
単なる趣味の合う仲良し、新進気鋭の漫画家ユニットとしてはあり得ないほどの否定の仕方だと思う。
いくら京本を自分の元に引き留めたいとはいえ、「まあーいいんじゃない?京本は背景だけだったからアシに任せればいいわけだし」とこれまた心にもないクッション言葉を置きながら、以降は否定一色である。
「美大意味なし就職できない」
「自分に『ついてくれば』全部うまくいく」
「(自分1人の力で生きてみたいという京本に)そんなのつまんないよ絶対」
「アンタ人と話せないじゃん」
「無理ぜったいムリ」
私はこのシーンで「ええーやっぱり藤野は京本を内心ではそんなに見下してたのかあー……」とちょっとシュンとした。
クッション言葉をいくら置いても無理だよこれは…。
そして不本意な京本の自立宣言という不意打ち喰らっていくらテンパったとはいえこれらの言葉も原材料(負の感情)がないと出てこないのではなかろうか。
一方の京本は自分の気持ちを辿々しく口にするばかりである。
別な言い方をすると、
藤野は典型的なyouメッセージ(相手に対して命令する印象や、相手を非難したり攻撃したりするニュアンスが強くなる「you」を主語としたメッセージ)、
京本は典型的なIメッセージ(自分の意思やお願いを相手に伝える「I=私」を主語にしたメッセージ)
である。
以上を念頭に置きつつ次の章に進めることにする。
「ゲームの達人」
藤野は実は、ゲームの達人である。
何のゲームか?
交流分析における「ゲーム」である。
ではその交流分析における「ゲーム」とはどんなゲームか?というと
「一定の結果を望みながら、本音を隠して一連のうわべを取り繕った交流を行う事」
と以下のnoteにあります。
つまり、交流分析とは精神科医エリック・バーンにより提唱された心理療法のひとつであり、「ゲーム」とはトラブルの発生しやすい交流パターンのひとつである。
概要はこちら
などがわかりやすいだろうか。
これらを頭の隅に置いて藤野の言動を振り返ってみる。
藤野は冒頭から最後までほぼ本音を隠している。
本当は裏で正当に努力しているのに、努力なんかではなくひらめき、センスでササっと4コマを描いているフリをする。
本当は謎の引きこもりに学年新聞の4コマ枠を渡すのがなんとなく癪でクッション言葉を置きながらも痛烈な嫌味を発する。
本当は初めて見せつけられた京本との画力の差にショックを受けた(表情には出した)のに、口にせず同級生の言葉にも反応せず、帰りの田んぼの畦道で不満を爆発させる。
京本によって覚えた挫折のため、京本に触れたくないのに「先生の最後の頼み」を聞いて卒業証書を届けてあげる(案外いい子やな…)
卒業証書を届けた京本に「ファンです!サインください!漫画の天才です!」と全力で推されたことでそれまで燻ってた画力コンプや挫折が消えたことに(おそらく)している。
途中で学年新聞の4コマを辞めた理由を「漫画の賞に出す話を考えるため」と嘘をつく(ただし、嘘から出た誠を実行してしまうところが藤野のすごいところである。根性あるなあ)
クールに京本の前から辞したのに、人目がなくなるとクソデカ感情の赴くまま変なスキップと踊りで帰宅する。
ジャンプに持ち込みした時編集者に手放しで褒められても「2人で描いて1年かかった、背景は京本が全部描いた」と謙遜してみせながら微かに我が意を得たりのドヤ顔をする。
賞金で街に連れて行って遊んだことと部屋から出してもらった礼を京本から言われて、素直に受けず「お礼は10万でいいよ」とジョークで返す(この辺が藤野の漫画家の才能のひとつでもあるんだろうけど)
京本に自立したいと言われて「さみしい」「京本が必要」あたりの本音(おそらく)を隠して古傷のコンプの蠍の毒針を引っ張り出して刺す(前章参照)
自分の望むレベルのアシスタントが見つからないのにクッション言葉で完璧に擬装し社会人としての礼を尽くしつつ本当はかなりの負担の中漫画を描き続ける。
回想の京本に「藤野ちゃんみたいにもっと絵上手くなるね」と言われて対等の嬉しさ、切磋琢磨の嬉しさではなくウエメセの「京本も私の『背中見て』成長するんだな」と返す。
つまり一言でいうと藤野は典型的な他人に弱みを見せたくないがために本音を隠すタイプである。
次章に繋ぐポイントはボールド体で示した
京本に「ファンです!サインください!漫画の天才です!」と全力で推されたことでそれまで燻ってた画力コンプや挫折が消えたことに(おそらく)している。
の部分になる。
「ゲームの達人」が受けた、バタフライエフェクト
他人に弱みを見せたくないがために本音を常に隠そうとする藤野は、本音がなんであるのか自覚できないのではないかと推測する。
本当の感情を押し殺してなかったことにする。
これをサイコロジー(心理学)で「抑圧」という。
この、自分の内部で抑圧された感情は、
内部に押し込めたはずなのに外部からの災難という形で戻ってくるという説がある。
例えば以下のように。
藤野の内面と外部の災難は直接的には何ら関係はないはずである。
しかし上記によれば、という条件付きになるが、抑圧され麻痺した感情は外からやってくる、とのことである。
つまり、バタフライエフェクトである。
で、あれば。
では。
では、京本にツルハシを振り下ろして命を奪ったあの暴漢は、藤野の心の抑圧が生み出したモンスターなのであろうか。
暴漢の動機は藤野とは同じではない。
(被害妄想上の)パクられによる被害と暴漢は主張する。
ではその被害妄想はどこから生まれたのか?
それは
暴漢本人の中で燻ってた画力コンプや挫折ではなかろうか。
前章の最後に私が推測した藤野の抑圧した本音をもう一度書く。
京本に「ファンです!サインください!漫画の天才です!」と全力で推されたことでそれまで燻ってた画力コンプや挫折が消えたことに(おそらく)している。
藤野と暴漢の内面に、一見異なる形なのだが、実は同じく穴がある。
そうすると、
京本を襲った暴漢と藤野はトポロジーでいうところの同相ということになりはしないだろうか。
トポロジーについてはこちら↓
藤野は内面の穴の存在をないことにした(自分の本当の感情を麻痺させた)
そうしたら外部から、内面の穴に操られた暴漢が京本を襲いに来た。
藤野の見たifの世界(夢?)の中で京本が描いた「背中を見て」の4コマ漫画の中の藤野の背中に突き刺さったツルハシのコマも、この解釈だとその通りに解釈できる構図とも言える(私自身はあのifのシーンは他の可能性も考えているが)
この構図は上記の「麻痺した感情は外からやってくる」に当てはめてみたものだが、如何だろう。
しかし、ここまで来るとサイコロジーというよりパラサイコロジーと言えるかもしれない。
だが、冒頭にも書いたが、映画本編も
SF的またはサイコロジカルな仕掛けがある
のである。
それならパラサイコロジー的な考察もそんなに突飛ではないのではないかと勝手に判断した。
それでこの考察を形にしてみたのである。
ちなみに…。
自分自身のメンヘラ経験では、「自分の本音を自覚することによって外部からの災害は減った」感覚はある(でもお絵描きストーカーだけはずっと遭ったなあ)
ただし、藤野と暴漢のような極端なバタフライエフェクトかどうかは検証しようがない。
しかし、現象の結果論だけ言えばその通りの経験をしている、ということは一応付記しておく。
そんなわけで、いろいろ書いて長くなってしまったが、映画「ルックバック」を鑑賞した1時間は、私にとってはシニカル・トポロジー・(One)アワーだった、とも言えるだろう。
とても完成度が高く何重にも読みを試行できる、深い作品だった。
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