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映画「ルックバック」の感想で今までで一番共感したレビュー2

前に「映画「ルックバック」の感想で今までで一番共感したレビュー」というnoteを書いたことがある。
みんなが泣ける泣けるという映画「ルックバック」を鑑賞して、泣けなかったというより呆気に取られた感の方が強かった私はこちらのnoteにシンパシーを感じたのであった。

ただそれはこの映画が「良い映画」であることを否定するものではまったくないのだけど。
私が他の人と鑑賞後の感想が異なるというだけである。
たとえば多重の表象が込められた演出にはとても感心したし、映像も音楽も素晴らしく美しかった。
特に背景描写にはとても心を動かされた。
この辺りは以下のnoteに詳述した。

で、鑑賞してから数ヶ月経って先月からAmazonプライムでも見られるようになったため、noteでまた「ルックバック」の感想がかなり増えてる昨今である。
私のような感想が極めて少ない(まあそんだけ私が世間とかけ離れてるってことやね)ものだから、せめて一人くらいは近しい感想はないかなと一応流れてくるnoteは目を通していた。
しかし、一向に同意できる感想が流れてくることはなかった。

…と思ってたら、先日目を見張るほどビンゴなnoteが流れてきた。
こちらです。

あー、これは私のような底辺層と違って教養のある人だ。
書き出しからすでに他の人と視点がまったく違うことがよくわかる。
他者におもねらず自分に忠実に書く人だ。

藤野さんが「良いアシスタントいないっすかね~」と誰かに電話で聞いているシーンでは、漫画家としての社会人的な態度が如実に表れている。内心ではイライラしていても(貧乏ゆすりから窺える)、電話口では「また相談させてください」と愛想良く対応する。そこには我々と何ら変わらない、一人の社会人としての姿がある。

映画「ルックバック」感想 藤本タツキは「ルックバック」で何をやりたかったのか(感想会用)


ここに注目してる人を初めて見た。
私もここは印象的に思った。
私の場合はこうである。

彼女の要領のよさは、連載中に思うレベルのアシスタントが見つからない苛立ちを隠しつつも実にそつなく社会人としてのマナーをかっちり守りながら編集と話すシーンにも現れていた。
藤野は漫画家にならなくとも普通に楽しく生きられるタイプの人間だと思った。

相方がぼろぼろ泣いた映画「ルックバック」、泣かなかった自分は実は

やっぱり藤野は漫画というか絵を描かないと生きていけないタイプ『ではなかった』のだ。
もちろん京本はその逆である。
なのでわたし的には「なんでもできて恵まれてるのに藤野は漫画でもてっぺん取りたいとか、欲張りにもほどがあるんじゃないか…?(京本には絵しかないのに…)」という感想だったのである。

さらに

 また少し場面は飛んで、京本さんが「美大に行きたい」と宣言するシーン。京本さんは勇気を出して宣言するのだが、藤野さんはそれを全否定する。藤野さんのこの否定には全く論理性がない。私はずっと気になっていたのだが、藤野さんと京本さんとの間には、暗黙の了解的な上下関係が存在するのではないか。感情的な全否定の裏には、"自分の思い通りになってくれない京本さんへの苛立ち"と、"自分よりも美大を選んだことへの嫉妬"の両方が介在しているように、私には思える。

映画「ルックバック」感想 藤本タツキは「ルックバック」で何をやりたかったのか(感想会用)

なんと、

藤野さんと京本さんとの間には、暗黙の了解的な上下関係が存在するのではないか。

である。
私は自分の感想以外ではこの2人の関係の非対称性に触れた人を今まで1人しか見たことがない。ちなみに私のnoteでこの部分に触れたのは以下。

一方、藤野は「京本の才能を『口には直接出さない』にしても認めていた」のではあるが、「口に出さない」ことで自分のプライドを保っていた面もあるように見えた。
藤野のキャラクター設定からすればそれは仕方のないことではあるが、それ故に藤野と京本が対等な立場で実は描かれてないということが気になった。
(略)
実際2人が手を繋いで街を楽しそうに歩くシーンは常に藤野が先だった。
藤野が京本の手を引いて先導していた。
その間藤野は後ろを振り向かなかったし、京本は藤野の背中を見ていた。
やはりこの2人は対等ではないのだなあと私は思った。
なんらかの形での破綻がこの後来ることを予感した。
人間同士としてはバランスが悪すぎる関係だからだ。
いくら楽しくても対等ではない。
(略)
そして藤野が主人公なので、藤野視点ではこの2人の関係の非対称性は見えないということなのだと思う。

相方がぼろぼろ泣いた映画「ルックバック」、泣かなかった自分は実は

実は「藤野は振り向かなかった」の部分は後日2回目の鑑賞で勘違いであることがわかったのだが、全体の主旨としては変わらないのでそのまま引用した。
また私は以下の別のnoteでもこの点に触れた。

(略)藤野と京本はお互いを補完しあって順調に漫画家としてステップアップしていったけど、その関係性は非対称的であった。
極論すると藤野が京本を従属させていて、対等ではなかったように私には見えた。
そしてその極北が二人の道が分かれたあの時の藤野の支配欲むき出しの言葉の数々である。

映画「ルックバック」藤野の「私のせいだ」は感動ポイントなのか(超辛口レビュー)

さらに先のnoterさんは

感情的な全否定の裏には、"自分の思い通りになってくれない京本さんへの苛立ち"と、"自分よりも美大を選んだことへの嫉妬"の両方が介在しているように、私には思える。

映画「ルックバック」感想 藤本タツキは「ルックバック」で何をやりたかったのか(感想会用)

と指摘している。
この部分に関しても私は類似の内容を書いた。

言い換えると、本当は相思相愛の2人なのに、それを告げたのは京本だけである。
藤野は虚勢張りだし素直ではないので京本にはそれを伝えていない。
一見するとこの関係は京本の片思いということになってしまう。
そういうバランスの悪さである。
それなのに藤野は京本が自分のそばにいて一緒に漫画の背景を描き続けてくれることを望んでいたのだ。
それが当たり前だとも思っていた。
だから自分の力で歩きたくなった京本に次々に毒親張りの支配的なセリフで京本を縛ろうと試みた。
(略)
ただ素直じゃなかったし、対等ではない関係を固定的にしていながらその自覚がなかった。

相方がぼろぼろ泣いた映画「ルックバック」、泣かなかった自分は実は

このnoterさんの面白いところはカントの道徳法則になぞらえて藤野と京本の違いを喝破しているところである。
これは原作者の藤本タツキ氏が意図した対比なのだろう。
誤解を恐れず表現してみると…。
ある種の世俗的な権勢欲にまみれてた藤野(「塗れて『た』」で過去形なので要注意)
そして現代日本で生き抜くことが不可能なのではないかと思えるほど純朴無比に絵を(しかもおいおい藤野の役に立てるように)極めたいと願う京本。
とでもなろうか。

まあ、私は今まで絵を描いてきて、藤野なんてかわいく思えるほどゴリゴリの権勢欲にまみれた雑魚モブ絵師や兼イベント主催者からストーキングに遭ってたのでどうしても藤野側に感情移入はできなかったけどね。

話を戻して、さらに驚いたのは以下である。

(略)藤野さんが京本さんの部屋の前に立ち尽くすシーン。「京本の死は私のせいだ」と嘆く。いや違うだろと言いたくなるが、自責的な感情になってしまうのはある意味当然と言えるので、あえて突っ込まないでおく。問題はその後のセリフである。藤野さんは「描いても何の役にも立たないのに……」と言う。(略)"役に立つ"とはつまり、先述した藤野さんの"意味"に相当する。また先述した通り、京本さんは役に立つ立たないの次元で絵を描いているのではない。

映画「ルックバック」感想 藤本タツキは「ルックバック」で何をやりたかったのか(感想会用)

あれれ、さっき引用した私の過去noteのタイトル…。

これね。
私はこのシーン、感動より「ええっ!?そっち??」となった。
何がそっちなのかは↑に書いた。
けど一言で言うと徹頭徹尾藤野は京本を従属物扱いしてるように私には見えたって話。

と驚いてたらさらにさらに驚いたのは以下。

(略)京本さんが男に襲われるシーン。男は「俺のアイデアをパクりやがって。馬鹿にしやがって」と言う。"あの男は藤野自身だったのではないか"というつぶやきをXで見かけたが、クリティカルな指摘だと思う。つまりこの男も藤野さんも、描くことへの動機は同じものなのだ。文脈から言えば、「展示されている絵は本当は俺のだったんだ」くらいの意味だろう。つまり藤野さん同様"他者からの称賛"を求め、そしてそれが自分ではなく、他の誰かが得ているということに対して不満を持っているということだ。

映画「ルックバック」感想 藤本タツキは「ルックバック」で何をやりたかったのか(感想会用)

ちょ、私こんなnoteも書いたんだけど。
「シニカル・トポロジー・(One)アワー〜考察:映画「ルックバック」藤野は犯人を生み出したのか?

"あの男は藤野自身だったのではないか"というつぶやきをXで見かけた

映画「ルックバック」感想 藤本タツキは「ルックバック」で何をやりたかったのか(感想会用)

とあるけど私は呟きでは一切ルックバックの感想は呟いてないので完全に別人である。
あーよかった。
3人くらいは同じ意見の人間が日本にいるってことね。とりあえずは。

というわけで、このnoterさんのルックバックレビューが私にはかなりのビンゴだった。
そんでもって、大半の人は藤野に感情移入するから藤野が無意識に京本を踏みつけにしてることに(悪気あってのことではないのはわかるけど)気づかないし、気づかないから素直に感動できるのではないかと思った。
そりゃ主人公なのだから(主人公目線で描かれてるから)視聴者が藤野目線なのは当たり前っちゃ当たり前なんだけど。

ただ、シニカル・トポロジー・(One)アワー〜考察:映画「ルックバック」藤野は犯人を生み出したのか? でも書いたけど、どうしても私にはこの作品は原作者のシニカル自己内観像が反映しているように見える。
なのであまりに(一見)出来過ぎの藤野の漫画家人生に京本の死という十字架を負わせる構図は、感動を呼ぶのはまあ確かだけど、なんだろう、原作者の自嘲みたいな波長を感じるのは私の気のせいだろうか。
それを感じると、単なる感動というよりその苦さの方が私には残るのだ。

…と書いていたらビンゴのnoterさんが追記にてまた鋭い視点で考察なさってた。
これは読み応えあるのでぜひそのnoterさんの記事本文でお確かめください。





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