どうしてダンスは「自己表現」なのか

ダンスについて考えていて、ひとつ、壁にぶつかった。

「模倣表現は、自己表現なのか?」という問い。

世間一般で踊られているダンスは、8割がた模倣表現といっていいと思う。振付けを考える人(+即興で踊る人)が2割で、大多数が、それを真似して踊る。

私自身、先生に作品の振り付けを教わる、という形、つまり模倣表現をしてきた時間が大半だ。そして、私自身は、ダンスを通して自己表現をしてきたと、感じていた。

けれども、いざ、模倣表現ともうひとつの即興表現を並べて考えたときに、模倣表現は自己表現じゃないんじゃないか、という疑念がわいてきた。研究をしていく上では、なにかと「定義」が必要で重要になってくる。今回は、ダンスの自己表現について考えたことをnoteにしておく。


「表現」という言葉を広辞苑でひいてみると「心的状態・過程または性格・志向・意味など総じて精神的・主体的なものを、外面的・感性的形象として表すこと。また、この客観的感性的形象そのもの。」とある。

ダンスは身体を使った表現だから、「身体表現」はこの「表現」のうち、身体に表すもの。また、身体にあらわれたものそのもの。と言える。少しわかりづらいので、私自身の言葉に言い換えると、身体表現は「感情や意味が込められた動き。また、動きの質感そのもの。」としておく。


この身体表現だけれども、ダンスにおいては「創作」と「模倣」のどちらかに区別できる。「創作」は自分でつくること。「模倣」はすでにあるものを真似ること。ちなみにこの「創作」も、作品をつくるためによく考えながら創作する場合と、即興的に創作する場合とがある。

ではついに「自己表現」について。

この言葉は、一般的には「自分を表現すること」を意味することが多いと思う。例えばファッションだと、自分で服を選んで着ていればそれは自己表現といえるけれど、他者に決められた服を着る(例えば制服とか)のは自己表現ではない。ここでカギになっているのは、自分の主体的な行為かどうか。ダンスで言えば、主体的な動作は自己表現、といえる。つまり、「創作」は自己表現といえる。一方「模倣」はどうだろうか。たとえば夏祭りで盆踊りを踊らされたり、運動会でむりやり?踊らされたりする場合には、主体性は存在しない。そういう意味では、自己表現とは言えない。けれど、世の中でダンスを楽しんでいる沢山の人たちは、かっこいい、かわいい振付けを自分でも踊りたいと思って、主体的に踊っている。自己表現を主体性をカギにして考えていくと、創作は自己表現だけど、模倣はその人の心的状態に依存する。というのが答えの一つ目。

もう一つ、「自己表現」は「自分による表現」という意味にもとれる。ファッションの例ではさっきと同様、自分で服を選んで自分で着れば自分表現だけれど、決められた服を着るのは自己表現ではない。ダンスにおいては、自分の身体が表現の媒体であるから、自分の身体で踊る以上、自分の創作した動きだろうと、与えられた振付けであろうと、自分による表現であることに変わりはない。「自分による表現」という側面においては、創作も模倣も自己表現といえる。これが答えの二つ目。

「模倣表現は自己表現なのか?」という問いに対する今回の答えは上の二つの答えから、「模倣表現も自己表現である。ただし、その度合いは創作表現よりも低い。」としておく。


表現媒体と「自己」が不可分なところに、ダンスの自己表現を定義する難しさがあった。


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