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報告/「うさぎ化とはなにか」連続対話会第3回

トオラスのさわです。

2022年10月15日から1泊2日で開催した、
広島県の大久野島へのスタディツアー。

非常に学び多き旅で、
ツアーに参加しなかった方も巻き込んで、
対話会を継続しています。

今回はその3回目。
深いテーマを扱っていますので、
ぜひご一読ください。

対話会のテーマ

第3回のテーマは、「うさぎ化とはなにか」。

3度の戦争に使われた歴史をもつ大久野島は、
現在は、ピーターラビットと同じ種のうさぎと触れ合える、
美しく楽しい観光地として生まれ変わっています。

観光収入により潤っている人が間違いなく存在する一方で、
毒ガス工場で働いて健康被害に苦しむ人たちは、
原爆被害者とは異なり十分な補償を得ることもなく、今も苦しみ続けています。

島じゅうに可愛いうさぎがたくさんいて、
家族連れやカップルがふれあいを楽しむ様子と、
大久野島に残る、数々の戦争遺跡とのアンバランスな様子は、
私たちの目にはあまりにも異様に映り、言葉を失いました。

このような状況を、参加者たちはいつしか
「うさぎ化」という言葉で表していました。

住む人のいないこの島を訪れる人の9割以上は、うさぎ目当て。
それでも、そうしてその中の何人かが、大久野島の歴史を知ることになるのなら、
「うさぎ化」にはメリットもあるのでしょう。
観光地化していなければ戦争遺跡も忘れ去られてしまいますから。

気づけば、世の中にあふれている「うさぎ化」。
「うさぎ化」の本質をとらえた上で、
私たちが未来に向けてできることとはなんでしょうか?

参加者からのお話し

・「うさぎ化」というのは、一言でいえば「意味のすりかえ」だと思う。
福島第一原発の話でいえば、廃炉計画40年と謳われているのに、廃炉に至るための方法は決まっておらず、デブリを処理する技術すらまだない。廃炉できないのに、「40年で廃炉にします」とだけ言っている状態。それを聞いた人は、いい方向に向かっているように感じる。実際はそこに至るビジョンすら全くないにも関わらず。近くの県に住む人でも、「福島原発、あぁ、12年前にそういう事故があったよね」という反応。なにも終わっておらず、事故収束の目処すら立っていないのに、大丈夫だと思ってしまっているのは、「うさぎ化」に他ならない。目の前にカタストロフがあるのに。

・ツアーのとき、ガイドの方が、「ガイド中も、うさぎが周りにたくさんいるけど、うさぎに気をとられないように」と言った。この「うさぎ」が意味しているものが「うさぎ化」だったのかもしれないと思った。すごく象徴的なことだった。自分は仕事でトラウマケアを考えることが多いが、戦争・虐待・暴力などの衝撃的な出来事で傷ついたことによるトラウマを解消するのには、物語の書き換えが有効だと言われている。たとえば、悪意に満ちた虐待ではなくて、そのなかに愛もあったんだ、のように。回復のために、ポジティブに書き換えていく作業がトラウマケアには有効。それによって、そこに囚われているという苦しみから逃れられるということがある。そう考えると、大久野島についても、自分たちのしてしまった加害性の痛みから、物語を書き換える必然性があって、書き換えていったのかもしれない。ただ、そのように、立ち直っていくためのひとつの方策として行われていたことが、癖になってしまったように思う。どんどん、本質を見ないことのほうに利用されていったのかもしれない。自分は、物語化することによる回復性には肯定的である一方で、危険性を感じている。

・「うさぎ化」には、二段階の作業があると思う。ひとつは、「ないことにする、なかったことにする」という作業。そして2つめは、「書き換える、変える、変容させる」という作業。トラウマケアという文脈で、物語をかきかえて、回復する人がいて、それによって前向きに生きていけるというのは必要だし有効だと思う。ただ、それは、被害を受けた側にとっての話。加害をした側が、被害を受けた人に十分に謝罪をしたりしないうちに、被害を受けた人たちが癒されていいよって言ってくれる前に、加害側が物語を書き換えるというのは、いくら日本人同士であっても、あってはならない、と思う。

・「歴史は勝者によって作られる」という言葉を思い出した。「うさぎ化」は、支配の構造のひとつなんだろうなと思った。支配する側が有利になっている。

・被害と加害が、入れ子構造になっているという話が以前の対話会であった。両方被害者であり加害者であるという状況がある。加害者側が物語を書き換えることはあってはならないんだけど、被害と加害がくっついちゃっていることがあるため、物語の書き換えによる影響が複雑なんじゃないか

・ 傷から回復するために希望をもてるような物語が必要というのはわかる。原発問題でいえば、福島原発事故の教訓を生かして、他の原発を再稼働すると政府は言っている。そこに、巨額の広告費や復興予算をつぎ込んで、物語が無理やり作られていくのを12年見てきた。原発事故による被害で傷をもつ人々を、意識してねじ伏せているし、ねじ伏せられていると感じる。なんとか再建しなければならない、回復したい、がんばりたいという思いを誘因する形で、うさぎ化的な物語が作られている。被災した人たちのニーズを組み合わせて進められているが、その過程で、自分たちが知らない間に犠牲にしてしまっているものがあるのに、それが見えないような形で進められている。広告とかマーケティングとか、人の意識を操作するという要素が意図的に使われている。自然なニーズすら、そこに使われていってしまう。現代社会は、そこ(うさぎ化して物語を書き換えて進める部分)に巨額を投入して意図的にやっていると思う。

・前回の対話会で、日本占領下にあったシンガポールが独立したときに、「ゆるそう、忘れない」というスローガンを掲げた政策をとったという話があった。そのことをずっと考えている。そのスローガンは素晴らしいねという話をみんなでしたけれど、そのスローガンもある意味、大きな力。大きな力で物語を書き換えるということと、その一方で、それぞれの個別の痛みや恨みを消す?癒す?なくす?ことが本当にできるのかというところが、どうにも納得できない。

・「うさぎ化」は、忘却の一形態だと思う。権力の側が意図的におこなっている、権力にとって都合のよい記憶の抹消だと思う。
広島の原爆についても同じことが言える。初期の被爆者の証言運動において、沼田鈴子さんのように世界中を証言して回る活動をしていた人は、マレーシアなど東南アジアの演説では、必ず謝罪から入ったと言われている。日本がアジア各国に対してしたことをまず謝罪。詩人の峠三吉は、「原爆によって黒焦げになった人も、生きているときは加害者だった。」という言葉を残した。広島は、日清戦争で栄えた。広島が臨時の首都になった。日清戦争は、朝鮮をめぐる中国との戦いで、被害をうけたのは朝鮮の人。そこで日本人はジェノサイドをした。広島には、日清戦争の勝利を祝う塔(日清戦争凱旋碑)があったが、太平洋戦争後それを「平和塔」に一夜でぬりかえた。「糊塗(こと)する」という言葉そのまま。当時の空気をわかっていた人は、軍都広島の加害性はわかっていたはず。広島は今でもとても保守的。岸田首相も広島の選挙区。

・ずっと、ダークツーリズムという言葉がひっかかっている。負の遺跡をめぐる活動のこと。「ツーリズム」という言葉は納得できない。負の遺産を、観光として消費の対象とするのはいかがなものか。そういう態度で遺跡をめぐるのは、人として間違っているのではないかと思う。軍艦島がいい例。産業遺産として、ポジティブな記憶として政府も世界遺産に申請した。そこでおきた強制連行の事実なども開示することを条件付きで認められたのに、一切そういうのをつけていない。

・権力の側が都合のよいように記憶を書き換える、「忘却の一形態」って、まさにそうだなと聞いていた。書き換えられ、あらたに提示されているものは、思考停止を誘うものであったりする。そこには、「見えない」、または、「甘い」罠があって、それ以上は考えずに受け入れることになる。そこにあるものが、思考停止に導かれるものなのかを見極め、思考停止に陥らず、私たちが本当はなにを欲しているのかを、自分は、探求にいきたい。そうして、被害の視点から探求していったときに、自分自身の加害性にもつきあたっていく。そのときに、なにをしていったらいいかを考えていく。ものごとに向き合うとは、そういうことが求められているのではないか。対話であったり、議論であったり、違う意見の人とも出逢いながら、それぞれが一歩先に進んでいくことが必要。そして、誠実な歴史的な検証も、知識として絶対に必要。

・うさぎ化とは、「ごまかされている」というような感覚なんだなと話を聞いていてわかった。では、どうあるべきだったのか?うさぎがいない状態だったらよかったということか?

・なんのことを「うさぎ化」と呼んでいるんだろう?と思い、聞いていた。「毒ガス島」と言われていた場所を、「うさぎ島」って呼ぶような、ごまかし。物語の書き換えってそういうことかとわかった。トラウマから立ち直るのに書き換えが有効という話があったけれど、ほかにも有効な手段があるなかで、その方法から取り組もうとすることが、すごく多い。広告やマーケティングの手法も使いながら、そうするのが癖になっているということは、まさにある。そのパターンがどんどん多くなっている。では、どうしたらよかったのか、どうするべきなのかというのは自分も考てしまう。

・アジアの国で、自分が加害者としてその場所に立つこともしたことがある。悪い体験としては、当時、日本軍はアジア人を強姦したのだから、いま自分にお前を強姦させろと言われたことがある。これでは、国は関係なく、男性が加害者で女性が被害者という構造になってしまうではないか、と思った。それを言った人は、実際に戦争を体験していない若い世代の人だった。ここにも、物語の書き換えに頼る仕組みと同じものを感じた。

・国の汚点を書き換えようとするとき、「なかったことにする」「よいことにする」がよく起こるのだと思う。

・「では、どうあるべきだったか」に応えられないことに歯痒い思いがある。毒ガス島のままだったら、住む人のない大久野島ではフェリーを使う人もおらず、廃船になっていたかもしれない。観光地化されたことによって、戦争遺跡のある地に行って学びたい気持ちのある人がフェリーで行けるということを考えると、ぎりぎりベストだったんじゃないかとも思う。「思考停止に陥らない」ということも、心に強く残った。

・ここまで熱心に「うさぎ化」をしたのは、それだけ痛みがあったということなのかもしれない。痛みのなかで生きていくための営みの一つとも言える。思考停止に至る過程について、虐待を受けてきた人と話すと、「良い子」が多いのに気づく。体制に従順で、親元からも離れられないような「良い子」。自立心が育てば、反抗して逃げ出せるが、そうできない。日本の状況って、虐待された子供に似ていると感じる。「良い子」すぎる。今の体制が戦略的になされたこともあるけど、望んではまっていこうとする私たちもいるのではないか。

・日本は加害者でもあり被害者でもある。戦争をしなければ、日本はもっとひどい状況になるというところで開戦した。どっちが加害者になるかは時の運でしかない。「おぼえているけどゆるす」は、戦争だから。一面だけ切り取ると善悪があるように思えるが、全体で見ると善悪はないかもしれない。

・ツアーに参加しなかった人が見ていなかったもののひとつに、大久野島のお土産やさんがある。可愛らしいうさぎの耳の形が、ミッキーマウスみたいにすべてのものに印刷されている。商品化されている。高度成長期には、うさぎ化が加速化したと思う。人に来てもらうということを考えると、「資本主義化」「うさぎ化」が有効に働いているのを認めざるを得ない。でも大久野島にうさぎ目当ての人が訪れても、その人たちは、なまなましい戦争遺跡はほとんど見て回らない。どうしたらよかったのかはわからない。

・過去の犯罪って、わかっていないこと・発掘されていないことがいっぱいある。それらを、知る努力をしないといけない。知れば知るほど、気付かされ、終わりがないような気がするが、事実は事実として知らなきゃいけない。加害性の自覚はしんどいことだが、だからといって、自分が心地よくなるためにそれを避けようとすべきではないという立場に、自分はいる。

・被害国との間で、「記憶の非対称性」があるということ。韓国を旅行したとき、日本人が韓国人を虐待した場所があり、そこに小学生が連れてこられてそのことを学んでいるのを見た。一方、たとえば岡山の玉野市では、強制連行で連れてこられた朝鮮人が、虐待されていっぱい亡くなっている。このことを、岡山の小学生は絶対に教えられない。岡山大空襲のことだけを教えられる。韓国の人はきっちり学んでいる。日本と沖縄をとっても、記憶の非対称性がある。対話がうまくいかないのは、そもそも教えられていない、知らない、無知を自覚していない、教えてもらっていないことに怒りすらない、という状況だから。知る努力、発掘する努力が必要だと思う。

・「うさぎ化」が、日本人が立ち直っていくために悪くなかったんじゃないか、という意見については、そうは思えない。そうするならする、で、その過程を全部残しておくべき。なにをどう変えたのか、記録が全部残っているべき。なぜならば、戦後78年たって、今だからこうして対話ができるというときに、事実をたどれないから。書きかわった状態しかたどれない。元の状態がたどれない。日本は、情報公開とか記録を残すとかが酷くおろそかで、 公文書も書き換えちゃったり、そういうことが頻繁にある。とても危険なことだと思う。 ちゃんと記録が残っていて、検証できるプロセスが残っていないと検証できない。こんな状況は、国として危機的な状況だと思う。

・立ち直るために必要だったかどうかというところが分かれ道かと思う。トラウマからの立ち直りの方法はいろいろあって、物語の書き換えは、有効だけど、数ある方法の中のほんのひとつ。そこに流れてしまう。「立ち直るために必要だった」という言葉に乗りやすい私たち、ということがあると思う。

・アジア人の特性もあるのかもしれないが、日本人は、原爆の被害の歴史は知っている。日本以外のアジアの人も、戦時中の日本のしたことを、被害の側だから知っている。もしかしたら、お互いに被害の側しか見ないということもあるかもしれないと思った。当時の雰囲気を知っているかどうか、も、確かにあるかも。中国残留孤児3世で中国で生まれ育った知り合いがいる。その人が若い頃、「日本ってやっぱりひどいですよね」と、周りの雰囲気に流されて、自分から言ったことがあった。すると、戦争を体験した老人が、「会ったことないからそんなこと言うんだよ」と言われたという話がある。歴史を知らないとしても、加害者にならない人もいるし、なにも知らず加害者になってしまうこともある。

・どうしたらよかったか、については、「うさぎをつれてこなければよかった」ではないことはハッキリしていると思う。私たちは、「なにが正解だったのか」を知りたがりがち。正解なんてないのだと思う。

・加害の側って、被害者の気持ちに寄り添う、をやってみせることが多い。謝罪するとしても、「被害を受けた方の気持ちを思うと、大変遺憾に思います」みたいなことを言うのはわりと簡単だと思う。そうではなく、加害の側がどういう気持ちだったか、を掘り下げて欲しい。たとえば、「自分が強くなったような気になって、調子に乗り、他の人種を傷つけても良いような感じがしていました」とか。加害の側が、自分の中に起きていたことを掘り下げてしっかり見ることも、繰り返さないために重要だと思う。


まとめ

みなさんと話している中で、「うさぎ化」には、
メディアや政府のような、誰かの大きな力による「意図」が
隠されていそうだなと感じました。

そして、
うっかり、「うさぎの可愛さ」に気をとられたら、
私たちはたちまち思考停止に陥り、
大事なことを見たり聞いたり知ったりできなくなります。

大久野島にうさぎがいることも、
うさぎを愛でることも、
それ自体は少しも悪いことではない。

だけど、それだけで終わらず、
「うさぎ可愛いね!でも・・・」と、
戦争遺跡の前でも、しっかりと立ち止まれるかどうか。

私たちはみな多忙で、自分のことで精一杯。
「時間がないから、今回はうさぎだけ見て帰ろう」と、
戦争遺跡は見て見ぬふりをする。

そんなことが、日常でもたくさん起こっているように感じます。

まさに今、
私たちひとりひとりの「在り方」が
問われているのだなと感じました。

次回、第4回の対話会のテーマは
「ないことにしない」。

第4回は、2月7日です!

第4回対話会のご案内

うさぎ島から考えよう!連続対話会(第4回)のテーマは、「ないことにしない」です。
2023年2月7日(火)21:00-22:30 
お申し込みはこちら
https://torus-usagi-after4.peatix.com/

私たちは誰でも、都合の悪いことや居心地の悪い話は、できるだけ遠ざけたいと思うものです。
それらにフォーカスして、いちいち悲しみや怒りに苛まれていたら、心がもたないよ、という主張もよくわかります。
自分の心を健やかに保つために、「ネガティブなものにはできるだけフォーカスしないようにする」「ポジティブシンキングでいこう!」という戦略は、否定されるものではありません。

事実は時に、あまりにも残酷で、私たちはそれを直視するだけの「心の基礎体力」を持ち合わせていないのです。

しかし、そのことと、現実に「事実」としてあるものを「ないことにしてしまう」ということについては、考えてみる必要があるんじゃないでしょうか?

実際に「ある」ものをないことにしないため、
私たちが未来に向けてできることとはなんでしょうか?



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