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学校DE&Iって何?多様性・公正・包摂に向かうために共有したい観点とアイデア

少し前に、これからは学校DE&Iを自分の主要テーマとしてやっていきますという宣言をしました。

自分が選んだ「学校DE&I」というテーマに関して、学ぶ→考える→発信する(input→output)のサイクルを強化していくことで専門性を高めていきたいので、これからはインスタグラムとnoteで、がんばって発信していきたいと思います。

DE&Iって?

改めて説明すると、DE&Iというのは、多様性(Diversity)、公正(Equity)、包摂(Inclusion)の頭文字を組み合わせた言葉で、異なるバックグラウンドや特性を持つ個人が平等に尊重され、参加できる環境のことです。DとEとIそれぞれの意味するところをもう少し説明すると、こんな感じになろうかと思います。

Diversity=多様性

生活環境、文化やルーツ、特性・能力、性的指向・性自認、学習スタイル、経験や価値観など多様なちがいを持つ人が「ここにいる」ということ。場からの排除をやめること+ちがいがあるということを前提認識にすること。
この際、目に見えるちがい(=表層的ダイバーシティ)だけでなく、見えづらい違い(深層的ダイバーシティ)も捉えようとしていくことが重要です。

Equity=公正:

個々の状況やニーズに応じて、必要な支援(異なる支援)を必要な人に必要なだけすることで、結果的にみんなが同じ機会にアクセスできるようにすること。いわば社会構造的な格差を是正するという観点です。

この「平等」と「公正」の違いの絵が、有名、かつ分かりやすいですね。

出典:Interaction Institute for Social Change | Artist: Angus Maguire.

なお、もともとはD&Iという言葉として広まっていたところに、Eが加わってDE&Iになってきたのですが、その意味するところについては、noteにまとめてくださっている方がいたので、リンクを貼っておきます。

Black Lives Matter(黒人の命は大切だ)運動が盛り上がった際に「White Lives Matter(白人の命も大切だ)」と水を差す人たちが現れました。今ある格差(圧倒的に白人よりも黒人が殺されている現実)を是正しようとせずに「白人の命も大切」と主張することは、今ある格差を維持・温存する姿勢を意味します。もちろん、白人の命も大事なのは当たり前です。でも、白人の命はすでに大事にされていて、黒人の命は大事にされてない現実があるから「Black Lives Matter」と叫ぶ必要があったわけで。こういう出来事がいくつもある中で、「単に多様性があって、場に一緒にいるというだけでは、社会構造的な格差が無視され、見落とされ、マイノリティが被る不利益は解消されない」という意識が高まり、Eが加わったのだと認識しています。

Inclusion=包摂

異なる背景や特徴を持つすべての人の声が聞かれ、みんなが「それぞれに自分らしさを大切にしながら」「共に」生きられる、過ごせる、働ける、学べる環境をつくり出すこと。排除を生んでいる枠組み自体を問い直し、変えていくこと。

参照元:http://tinyurl.com/29hd7mue|©︎メガホン × カタリスト for edu

マジョリティ/マイノリティって何?

DE&Iを考えるうえで、マジョリティ・マイノリティという概念を少し整理したいと思います。単に少数派・多数派という意味合いで使われがちですが、数の問題ではなくその社会やコミュニティにおける力関係で捉えることが重要です。マジョリティは、意思決定への影響力やその場のアタリマエを形成するパワーを持っています。マイノリティはそうでないため、無視・軽視されやすい傾向にあります。

参照元:https://www.jinken-net.com/close-up/20200701_1908.html(出口真紀子氏の整理)

多くの人はマジョリティ性・マイノリティ性を合わせ持っている

《マジョリティ/マイノリティ》というと、世の中には「マジョリティの人」と「マイノリティの人」いて、スパッと二分されるような印象を抱くかもしれませんが、そうではありません。例えば、私は女性である、被差別部落出身であるという点ではマイノリティに当たるのですが、それ以外の項目はほぼマジョリティに当たります。世の中のほとんどの人は、マジョリティ性とマイノリティ性を合わせて持っているはずです。つまり、同じ一人の人間が、生きづらさを与える側でもあり、生きづらさを強いられる側でもある。この点は結構重要です。人権問題というと「どこかにいるかわいそうな誰かの話」という気がする方も多いかもしれませんが、誰もが加害者にも被害者にもなりうる=誰もが差別の問題の当事者だということです。

学校は(社会も)マジョリティ仕様につくられている

社会の制度、ルール、仕組み、文化は、マジョリティに合わせて形成されています。学校の授業、行事、部活、施設、評価、コミュニケーションなどのあり方も、マジョリティに合わせてつくられています。それはつまり、マジョリティに利益を、マイノリティに不利益を与える構造になっている、ということです。それによって、たとえ誰にも悪意がなくとも、マイノリティの子どもが困ったり傷つけられたり抑圧を受けている現実があります。 まずはそのことを自覚することが第一歩です。

例えばこんなことです。

  • トイレや階段、教室など、学校施設は健常者やシスジェンダーに合わせてつくられている。

  • 「世の中には男女しかいない」という前提とした仕組みや慣例があり、そういう声かけが行われる。

  • 両親+子どもという家族構成や、円満な家族像を前提とした声かけがおこなわる。それを前提として行事や取り組みが行われる(1/2成人式など)

  • 教科書に載っている歴史は大和民族の視点で描かれている。歴史上の重要とされる人物はそのほとんどが男性である。

  • すべての子がスムーズに日本語が使えることが前提の環境になっている。

  • 教科書に載っているイラストのほとんどすべてが黄色人種である。

  • 教材費や制服代などを各家庭が支払えることが前提となっている。

マイノリティの存在と困りごとは見えづらい

当然ながら、マイノリティの人たちは、マジョリティの人たちとたくさん出会います。その中で、マジョリティの人たちのアタリマエを前提に世の中が成り立っていることを感じ「自分のふつうは普通じゃないのか…」と日々実感します。また、知られると差別を受けるリスクがあるため、なるべく「隠そう」と思ったり、カミングアウトを躊躇したり、避けることになりがちです。そもそも数の少ないわけですし、社会環境としても存在が考慮されていないので、マジョリティからすれば、マイノリティの存在も抱えている困難もなかなか見えません。こうして、マイノリティがいるのに「いない」、差別や不利益があるのに「ない」ことになってしまいがちです。(マイノリティの不可視化)

社会学者のケイン・樹里安さんは、マジョリティを「気にせずにすむ人々」「気づかないでいられる人々」 と定義しています。

マジョリティは、社会に不公正・不平等があるという問題を、そもそも気付くことができない。もしくは気付いたとしても、スルーできる、立ち去ることができる。そうして、意図せずともそのような構造の維持や再生産に加担してしまうのです。さらには、問題を見て見ぬフリをすることで、利益を得ることもあります。

一方でマイノリティは、進学や就職、昇進など、日々の生活の様々な局面で、情報や資源、機会へのアクセスを阻まれたり、不利益を被ったりしています。したがって、社会の問題点を「気にせずにはいられない」のです。

参照元:https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/denial-racism

差別や不公正を是正していくためには、まず気づき、次にアクションを起こす必要があります。ですが、気づく=想像力のアンテナを高めるということは心掛けではできません。具体的な知識・学び・出会いが必要です。

学校におけるマイノリティって?

少なくとも、学校という場において、不可視化されやすく抑圧や不利益を受けやすい人たち=マイノリティについて、認識しておくことは重要だと思うので、以下にまずは挙げるだけ挙げておきたいと思います。各マイノリティが学校という場において被りやすい不利益や抱えやすい困難については、今後、別の機会に詳しく書いていきたいと思います。

  • 子ども(見落とされがちだが大人との関係においてマイノリティ)

  • 女の子

  • 障害のある子(身体障害、知的障害など)

  • ニューロ(神経学的)マイノリティ

  • 性的マイノリティ(LGBTQ+)

  • 国籍・民族・言語・文化的マイノリティ(外国籍・外国ルーツの子、アイヌなど)

  • シングル家庭やステップファミリー、社会的擁護で育つ子など

  • 経済的に苦しい家庭の子

  • 虐待を受けている子(身体的・心理的・性的虐待、ネグレクト)

もちろん、他にもいろいろあって、これらに限定されるものではありません。

学校DE&Iを進めるときの基本的な優先順位

学校DE&Iを進めるうえでのステップを、3つの段階に分けて考えてみたいと思います。

まず、マイノリティに不利益を与えている構造(有害なアタリマエ)に気づいて、それをやめることが最優先だと思います。これは言い換えると、学校が生みだしているマイナス・加害を止めることです。
ex,人権侵害的な問題校則を撤廃する、教職員によるマイクロアグレッションをやめる努力、特定の子に不利益なルールや仕組みを見直す…etc

次に、社会に存在している差別や抑圧に可能な限り介入し、是正しようとすることです。これは言い換えると、学校という場所を「セーフティネット」にすることです。学校が加害をしていなくても、子どもたちが被害を受けた状態で学校にやってくることは少なくありません。
ex, 虐待に気づいて適切な対応をする、マイノリティの子どもが抱いている自己否定感を塗り替える、文化資本の小さい家庭の子どもたちに文化のシャワーを浴びせる…etc(※「文化のシャワー」というのはNPO法人パノラマの石井さんの言葉。以下リンク参照)

3つ目は、多様性が生み出すプラスの効果を教育に生かすこと、です。1つ目と2つ目は、いわば「マイナスをゼロにする」取り組みですが、これは「プラスを目指すこと」です。
ex, 外国ルーツの子どもたちの存在を資源として多文化理解教育を進める、能力・得意・経験・価値観等のちがいを活かした授業をつくる…etc

必ずしも、1つ目から順番にやらなきゃだめ!ということではもちろんありませんが、取り組むうえでの優先順位は1つ目→3つ目であろうと私は考えています。例えばですが、外国ルーツの子どもたちへの抑圧や彼ら彼女らが抱かざるをえない自己否定感を放置しながら、「多文化共生って大事だよ!」「異文化っておもしろいね!」という授業をやることには欺瞞があるのではないでしょうか。(ただし、2つ目の実践として多文化理解の学びを展開することは十分あり得ますし、ケースバイケースなのは大前提)

学校という場所には、ゼロから上に積み上げていくことには力を入れてがんばるけど、今あるマイナスをゼロに戻すことは軽視する文化があると感じます。プラスを積み上げていくときの矢印は子どもに向くけれど、マイナスをなくしていくときの矢印は自分(大人・先生)に向く。そういう意味でも、まずはマイナスをなくすことからじゃないのかなと思うのです。教育&指導の前に、環境整備&サポートを。マイナスがなければ、子どもたちは自ずと学んで育っていく、という側面もあるはずではないかな。

DE&Iを進めるうえで変えていきたい日本の学校の"アタリマエ"

学校において、DE&Iが進まないーマイノリティが不利益を被る構造が温存される背景にいくつかの日本的学校風土があると思います。代表的なものを3つ挙げてみました。逆を言えば、これらを変えていければ、DE&Iがぐっと進むのではないか、と私は思っています。その3つとは「形式的"平等"主義」「個人モデル発想」「大人主導」です。

形式的"平等"主義(→公正へ)

上で、公正について説明しましたが、日本的平等は、みんなに同じ箱を配ること、です。必要な人に必要な支援(ちがった対応)をすることは「ずるい」と言われてしまいがちです。だから、日本の学校においては、ディスレクシアの子がタブレットを持ち込むことや、トランスガールが髪を伸ばすことがなかなか許されません。(タブレット持ち込みができなかったのはGIGAの前の話ですし、男女分けて髪型を規制している校則は減ってきてはいますが、近しいことは最近でもたくさんあります)
合理的な理由のある「ちがった対応」は、機会へのアクセスを保障するために必要です。

もっと言えば、「トランスジェンダーなのであれば(特別に)髪は伸ばすのを許可する」というのもおかしな話ですし、それでは「あの子だけずるい」という話になりかねません。「そもそもその髪型の校則って、いる?ないほうがみんなにとってよくない?」という議論が必要です。以下のイラストでいう「LIBERATION」の観点ですね。(なお、これは次で説明する「社会モデル」の発想でもあります。)

「ずるい」という気持ちは、「自分は我慢してるのに」「あの子だけ特別扱い」という認識から生まれるもので、「必要に応じて、みんなそれぞれにちがった対応"がなされることのメリットを自分も享受している」と思えれば、心情は変わるでしょう。リソースの問題は別途議論が必要ではありますが、明確な"ラベル"がある"わかりやすいマイノリティ"だけではなく、【みんなをそれぞれに特別扱いする、一人ひとりに必要な手立てを講じる】ということや、【マイノリティに限らず、すべての人にとっていい制度やルールって?という視点で現状を見直すこと】が重要です。

個人モデル発想(→社会モデル発想へ)

個人モデル / 社会モデル、という言葉を聞いたことがあるでしょうか。生じている問題について、その原因を個人(資質・能力・努力等)に求め、その人(や家族)の工夫や努力、治療などによって解決すべきだという考え方を「個人モデル」と言います。一方、問題の原因をその人を取り巻く環境・社会(仕組み・制度・ルール・関係性等)に求め、環境や社会を変えていくことによって解決するべきだという考え方が「社会モデル」です。主に障害者運動の中で発達してきたものですが、より広い文脈で生かすことができる汎用性の高い概念だと思います。

例えば、個人モデルの考え方に基づいて「授業をエスケープする子がいる」ということを考えれば、「問題なのはその子」なので、叱る・指導する、投薬する、放置するといった対応になります。一方で社会モデルの考え方に立てば「あの子がいられる教室って、授業って、どんなものだろう?」という問いになり、教室環境や授業のあり方等を見直していくことになります。

個人の工夫や努力がまったく必要ないと言っているのではありません。ですが、個人モデルの考え方は「マイノリティが受けている不利益」を維持、再生産するものであるという認識は必要です。

学校も社会も、基本的にはまだまだ個人モデルの考え方で回っています。前述の「トランスジェンダーなのであれば(特別に)髪は伸ばすのを許可する」という対応は、個人モデルの考え方に基づいて、マジョリティがマイノリティに対して「温情を与えている」という構図になっています。そうではなく、環境(ここでは校則のあり方)を見直そう、というのが社会モデルの考え方です。

大人主導(→こども参加へ)

教育の現場においては、教える内容や方法、望ましい行動、ルールや規範など基本的にすべてのことを大人が決めています。これは、ある程度仕方ないことではあります。ですがその中で、気付かぬうちにマイノリティへの不利益が起こっている可能性があること、意識する必要があります。ともすれば、「よかれと思って」やったことが、結果的に子どもを傷つけ、抑圧することになっていた・・・ということだってありえます。それは、こわいことですよね。教育に関わる大人は、基本的に「子どもたちにとってよいことを」と思っているはずですから。でも、私たち大人も仙人でも神様でもないので、あらかじめ全ての可能性に気づいて、避けるのはむずかしい。ではどうしたらいいのか。

その答えは「子どもに教えてもらうこと」です。

子どもの権利条約の4つの原則の1つに「こども参加(意見表明権・聴かれる権利)」というのがあります。

第12条
締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。 この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。

さまざまな権利を包括的に規定している子どもの権利条約の中で、12条が特に重視されている理由の1つは、意見表明(声が聴かれること)はそれ自体も権利であると同時に、他の諸権利を実現するための大切な手段でもあるからです。

つまり、学校において大人が気づいていない権利侵害や差別や抑圧、特定の子どもにとって不利益なことが起きてしまっている場合に、こどもの声が聴かれる環境さえあれば、「子どもがそのことを教えてくれ、それに基づいて、状況を修正・是正できる」ということです。

もちろん、「声を出したら聴いてもらえる」という、大人と場への信頼がなければ子どもは声を出せない可能性が高いので、フラットな関係づくりや声を出しやすい仕組みの整備など、大人側の不断の努力が必要ですが。
こども参加はDE&Iを進めるうえでも、パワフルな、非常にポイントになる要素だと思います。

一旦終わります・・・笑

非常に長くなってしまいました。もう少し具体的に書きたいところや、例があまりイケてないな・・・と思うところもありますが、ひとまず公開します。

今回は、学校DE&Iを進めるうえでの、観点や考え方について、主にまとめました。マイノリティイシューごとのもっと解像度の高い情報や、具体的にできることの提案もしていきたいと思っていますので、関心のある方はぜひnoteのフォローをしていただければと思います。

最後まで読んでくださってありがとうございました。 よろしければ、フォロー・サポートなどしていただけると、活動していくうえでとても励みになります^^