見出し画像

すずめの戸締まりを通して見つめた、わたしの故郷と記憶

書かないと、書かないとやってらんない。
誰かに話さないと、やってらんないような気分でもあるけど、いま日本はきっと朝の5時ごろで、まだ誰も起きてないし。
だから今日も1人で書く。こんな陶酔しきって荒削りの状態でいるのもあれだし、少し落ち着いてから時間をおいて書くべきなのかもしれないけど、いま、2023年4月21日22時43分のわたしのこの感覚は、いまのわたしが一番鮮明に体感できるものだから、書く。

映画「すずめの戸締まり」をやっと見てきた。
(ネタバレを含みます。)

涙もろい方だとは自覚していたけど、同行者が静かになってしまうくらい、泣いてしまった。
どうしてこんなに涙が出てきたか、わかってる。
この映画は、わたしの知ってる世界を描いてる。
わたしが18年過ごした、地元を描いてる。

あまり個人情報が特定されるようなことはnoteに書きたくなかったのだけれど。

芹澤の車ですずめたちが埼玉方面に向かい始めた時、
「あれ、東北の方にでも行くのかな」
と思ったけど、まさか宮城の気仙沼も越えて、岩手まで行くとは。

そこが岩手であるということは、終盤まで明かされなかったのだけど、
すずめが目的地に着いた時、「ここ、震災後の岩手みたい。」と思ったのだ。
(周りの地名からなんとなく仄めかしつつも、その場所の地名を明らかにせず、そのまちを知っていた者に「ここ、知ってる」と感じさせる監督、、)
常世にすずめが入った時、船を上に乗せた建物が映ったけど、あれは大槌という街にあったもので、資金不足で今は撤去されている。
最後、織笠駅ですずめと草太さんは電車を待っていたけど、
その電車はわたしにも馴染みの深い電車で、行き先はわたしの地元だった。
そしてその織笠はわたしの大叔母と大叔父、祖母の実家があったところで、
その家で、わたしの大叔母と大叔父は、12年前、津波にのまれ、亡くなった。
12年も前のことで、わたしはいま日本から遠く離れた異国にいて、
ふるさとのことも、震災のことも毎日思い出すわけではないけど、
8歳の頃の記憶が、とてつもないスピードでわたしの目の前に広がり、
跡形もない街、憔悴しきった人々、寒い部屋、本当にいつも優しかった大叔母と大叔父の死に顔、スーパの配給に並んだこと、大津波を知らせる緊急市内放送、地震のアラート、何が起こってるのかわからなくて涙も出なかったけど迎えにきてくれた祖母の顔を見たら涙が不思議なくらい出てきたこと、

長いあいだ忘れていたことが蘇って、
忘れていたわけではないにせよ
「ああ、こんなふうに人間は思い出さなくなっていくんだ」
と思ったし、地震が起こった後の
「そうさ、繰り返すのさ」というような言葉が染み渡った。

友達は、
「途中で出ようと思うくらい生々しくて、色々と思い出して怖くなった。また人の気持ちに寄り添った作品を作ってほしい」
と言っていた。どう感じたかは自由で、わたしはその感じ方もとてもわかるのだが、わたしはそうは思わなかった。
生々しくしてもらわないと、やさしいふんわりとしたものなんて、と感じたし
経験していない人には恐怖や絶望は伝わらないのだ。
そして、本当にこの作品は、人の気持ちに寄り添ってないのだろうか?
「死にたくない、生きていたい」という気持ちをわたしは肯定してもらえた気がしたけど、といろいろ考えた。

"(新海監督)震災はどうしたっていろんな物語を生むし、僕たちがつくらなくても物語が生まれていくし。でも、物語はどうしても暴力性をはらみますよね。誰かを傷つけないよう、慎重に傷つく部分を避けて描かれた物語は、誰の心にも触れないということでしょうから。"

https://www.nhk.jp/p/ts/GV37P3QRV4/blog/bl/prAM3NPgLr/bp/pLEzDPBgV8/

震災がテーマということで、忌避する友人もいたしそれなりに多い感触だったけど(もちろんPTSDなどもあるし、見る見ないは完全に、絶対に個人の自由)むしろわたしは新海監督が描いてくれて良かった、と思った。

地震だけではなく、津波や自然災害は、
いやこれは自然災害に限った話ではないかもしれないが、
自分の身に起こらないと、ずっと、違う世界の話だと思う。
だからと言って責める話ではないが、本当にそうだと、思う。
地元を出て、東京で暮らし始めて、特にそう感じた。
わたしと地元の人にとっては、頻繁に思い出すものではなくても、一生記憶から消えることはない出来事だけれど、
経験していない人にとっては、きっとずっと他人事で、違う世界で起こったことのように感じるんだと思う。

作品というのは、自分が知らない、未知の世界への橋渡しだとも思ってる。
だからこそ、新海監督に、この街と、この震災のことを描いてもらって、言及してもらって、良かったなと思う(被災地代表のような偉そうに聞こえるかもしれないが、一市民の所感です)

本当はもっともっと話したいこと、書きたいことがあるのだけれど
(ボーイミーツガールならぬガールミーツボーイだったよな、とか、過去の作品であまり見られなかった女同士の連帯とか、すずめの圧倒的ヒロイン感…、芹澤たまらない、というか昭和の曲出てきすぎ激アツ、やっぱ文学部卒ってなんとなく感じるよなという話とか、日本の美しい田園風景も美味しそうな日本食も、東京駅の中央線プラットフォームや神田お茶の水あたりも全部懐かしくて少しうるっときて自分結局日本好きなんじゃんってなった話、とか、ほんとくだらないとこまでいろいろ)
一番強く感じたいことを今は書けて良かった。

高校2年生の夏、天気の子を劇場で見た時もすごく没入して、
初めて見たとき、劇中歌を聴きながら
「野田洋次郎が次に何を歌詞にのせて歌うか、直感でなんとなくわかった」
とかいろいろほざいていたんだけど、
それは観客と作品(フィクション)が共鳴する瞬間だったと思うし、
今回のすずめでも、わたしは作品にのめり込み、長らく思い出さなかったものを思い出し、自分が見てきた、生きてきた世界を、フィクションという虚構の世界を通して見つめ、泣いた。
これもまた、共鳴だと思う。

(圧倒的美しさや非現実的な要素もありつつ、現実のわたしたちが生きる日常の風景も写実的に描いているからこそ、と思う。)

新海監督の作品は、わたしにとって、共鳴だったのだ。

君の名はを映画館で見た日のことも、天気の子を見た日のことも
まるで昨日のことのように覚えているけど、
今日、すずめの戸締まりを見た日のことも、わたしの中でずっと残るだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?