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ヒライマサヤ(マーガレットズロース)、インタビュー「ロックンロールは魔法の言葉」 【前編】

今年で結成27年、ミディからアルバムを4枚リリースし、息の長い活動を展開しているロックバンド、マーガレットズロース(略:マガズロ)。今回はそのフロントマン、ヒライマサヤ氏へのロングインタビューを行いました。デビューから現在に至るまで、これまでのキャリアを作品とともに振り返ってもらい、その尽きることのない創造力の源泉や、ヒライ氏独自のロックンロール論などについて語ってもらいました。マガズロの作品を聞くのが2倍楽しくなる、濃密な内容となっています。

【後編】も是非!

ーーマガズロが、ミディではじめて作品をリリースしたのが2003年。それから20年近く経ったことになりますね。2016年以降、作品リリースはありませんが、(ミディとの)付き合いという意味では相当長いですよね。
「そうですね。ただ、そもそもミディは、所属アーティストとの繋がりが緩いというか、『所属』という感覚が全体的に薄いですよね(笑)」

――確かに…(笑)バンドの結成は1996年、今年で結成27年目となります。バンドを30年近く継続させること自体、簡単なことではないと思うのですが、感慨深さはありますか?
「正直、感慨深さはあんまりないですね。27年の中で、時間の流れ方がねじれている感覚があるんです。最初の10年間は長かったんですけど、それ以降は一瞬で過ぎちゃったところがあって…。2011年に僕が九州(熊本)に移住し、メンバーたちと会う機会も減りましたし、バンド活動が遠距離となったことも大きいと思います」

――メンバーの皆さんとはどう知り合ったんですか?
「大学で上京して、1年生の時にサークルで知り合いました。以降ずっと一緒に活動しているので、『最初からいきなりすごい人たちと出会ったな…』というか、そういう感慨深さはありますね」

1996年。マーガレットズロース結成の頃。ヒライが住んでいた学生寮「和敬塾」の自室にて。ドリフのブロマイドや竹久夢二の挿絵を部屋に飾っていた。
1996年。左から岡野大輔、粕谷裕一。当初、粕谷はスタジオ代を払いたくないという理由でサポートメンバーだった。

――サークル仲間と、ずっと関係性が続いているというのはすごいですね。学生を終えて社会に出ると、それぞれ抱えている状況も違ってきますし、疎遠になることも多いと思います。
「僕がしつこい性格というか、さよならが下手くそなんですよね…。完全に縁が途切れること自体、あまり無くて。メンバーが『辞めたい』と言い出したこともありますけど、止めましたし。夫婦関係にも似ていて、最初の頃は記念日をお祝いしたりするけど、10年、20年と経つうちに、当たり前になってきちゃいますよね。結成20周年の時とか、忘れてたんですよ。イベントとかも何も無くて(笑)」

――活動休止期間とかもないですし、オフィシャルページを見ると、継続的にずっと作品もリリースされていますよね。
「熊本から大分に移り住んでからはマガズロ以外の音楽活動も活発化したので、バンドの方は滞ってたんですけど、それでもコロナ前までは、(マガズロとしての)ライブが無い年というのは1度もありませんでした。2020年、2021年はメンバーとも全く会ってなかったんですけど、久々にライブをしてみたら、結構普通でしたね(笑)結成当初に濃い関係性を築いていれば、多少ブランクがあっても元に戻りやすい気がします」

――デビューアルバム『雛菊とみつばち』がリリースされたのが2001年。それまではライブ活動がメインだったのでしょうか?
「大学1年の時にサークルを辞めて、以降はライブハウスでの活動がメインでした。新宿JAMや下北の屋根裏、吉祥寺の曼荼羅などでライブしてましたね。当時はライブハウスの多くがオーディション制で、審査用のテープを送ったりしてました」

2000年。左から岡野(ベース)、ヒライ(ギター/ヴォーカル)、粕谷(ウクレレ)、金井裕(キーボード)

――2000年前後は、まだデジタル配信も普及していませんでしたし、バンドがインターネットを活用して自ら発信するのには限界があったと思います。そういった中で、レコード会社と契約して、音源をリリースすることの重みも違ったのではないかと思うのですが、どのようにしてデビューのきっかけを掴んだんですか?
「当時は自主制作音源もCD-Rでは無く、カセットが主流でした。ライブ録音だったんですけど、『マーガレットズロースの実況録音』と題して、ライブハウスで500円とかで売ってたんです。ある時、1stアルバムをリリースしたレーベルの「cafe au label」を主催している原さんがライブに来て、音源を買ってくれたんです。それで気に入ってくれて、リリースも割とすぐに決まりました」

――マーガレットズロースを「発掘した」とも言える、原朋信さんの役割について教えてください。
「原さんは音楽プロデューサー/レーベルオーナーで、基本全て自分でやるというか、DIY精神に満ちた人でしたね。ご自身もアーティストなので、アーティスト目線なんですよ。デビューアルバムのプロデュースが原さんなんですけど、荒川の土手や代々木公園の歩道でレコーディングしたり、業界の慣習のようなものに捉われず、バンドの魅力を引き出すために独創的なアプローチで制作に関わって下さいました。僕たちにとってはお兄さんのような存在で、頼りにしてましたね」

2005年。横浜STOVESで行われた結婚パーティで歌う原氏。

――その後1年余りでリリースされた2ndアルバム『こんぺいとう』で、作風が変化したと感じました。音楽性が色彩豊かになり、歌詞にもユーモアが感じられたり。この変化はどう生まれたんですか?
「デビューが決まるまではキーボードのメンバーがいて、4人編成だったんですけど、アルバムのリリース前に抜けちゃったんです。あと、1stはそれまで書き溜めてきた楽曲のベスト盤とも言える内容だったのに対して、2ndアルバムは1st以降に書かれた、よりフレッシュな楽曲で構成されていたというのもあると思います。

大学に入学して、上京したての頃は、それまで知らなかった音楽に触れて衝撃を受けたと同時に、コンプレックスのようなものもあったので、かぶれちゃってたんですよね。70年代、60年代のフォーク・ロック黎明期の音楽に強い感銘を受けてたんですけど、消化しきれていなかった。1stアルバムにはそういった頃に書かれた曲も収録されているんです」

2001年。左から岡野、金井裕、粕谷、ヒライ。 新宿御苑にて1stアルバムのジャケット撮影を行うが、ジャケットにはヒライのイラストが採用された。

――今、改めてデビューアルバムを聴いてみてどう思いますか?
「全然恥ずかしくないし、名盤だと思います。けど、当時と同じ気持ちでは歌えない曲もありますね。例えば、『おやじ』という曲があって、僕が10代の頃、親父の昔の写真を見て感じたことを歌にしてるんですけど、今ではその意味合いが変わってくるんです。当時、親父との間に感じていた壁のようなものが無くなって、より深みを感じるようになったというか…新鮮な気持ちになりますね。そういう曲もあるんですよ」

――2ndアルバム『こんぺいとう』についてはいかがですか?
「これは一番好きな作品だと思います。原さんのプロデュースの手腕が最も発揮されていて。レコーディングの日、リハーサルスタジオで機材のセッティングをした後、渋谷クラブクアトロにbloodthirsty butchersのライブを観に行ったんです。ブッチャーズがすごく好きだったので、ライブで得たエネルギーをそのままスタジオに持ち帰ってレコーディングすれば、すごい音が録れるはずだ、みたいなことを原さんが考えて(笑)。本当に、ライブを観た後スタジオにすぐに戻って、アルバムの収録順通りに一発録音しました。原さんは僕らにプレッシャーをすごく与えるんですよ(笑)。荒削りな仕上がりではあるけど、今録音しても絶対にこういう風にはならないな、と思うんですよね」

『こんぺいとう』時代(2002年頃)。新宿ジャムスタジオにて。バンド練習はいつもジャムだった。

――『こんぺいとう』の収録曲は1stに比べると短期間で書かれていますし、レコーディングもほぼ一発録り。時間をかけたからいいものが作れるとは限らない、ということでしょうか?
「そうですね。当時は今よりも曲を書くペースが早かったですし。プライベートでも色々と事件があったり…。そういう時って、ポンポン曲ができたりするんですよね。キーボードが脱退して、(3ピースにスケールダウンして、)音が足りなかったからこそ、エネルギーが溢れてきたというか。音楽性や歌詞についても、マーガレットズロースのスタイルが確立された作品ではあるかもしれないですね」

――ご自身の性格についてはどう思います?シリアスなタイプなのか、あるいはなんでも笑い飛ばせるユーモラスなタイプなのか。
「二面性のある人間だと思っています。けど、暗い曲を書いていた時って、少し暗いフリをしていたというか、暗い方が思慮深い感じはするじゃないですか。明るいことって、シンプルだし、バカっぽく見えやすいので。若い頃はそういう明るさを曝け出すのが恥ずかしかったのかもしれないですけど、年齢を重ねて、思ったこと、経験したことをそのまま歌にすることができるようになったのかもしれないですね。『こんぺいとう』は日常の出来事がそのまま歌になっている曲が多いです」

――その後、2003年にミディ(クリエイティブ)から3rdアルバム『こんな日を待っていたんだ』がリリースされます。ここで一気にロック色が強まるというか、アグレッシブになった印象を受けました。
「そうですね。といってもアルバムごとに『今回はこれで行こう』とテーマを決めているわけではないんですけど…。基本的にその前の作品がリリースされて以降、新たに書いた楽曲を収録しているので。『この曲を収録するのはやめとこう』とかそういうのもなくて」

――それでも、アルバムごとにまとまりはあるし、それぞれ特有の空気感は出ていますよね。
「『こんな日を待っていたんだ』の特徴についていうと、まず、マガズロの代表曲の1つである『斜陽』が収録されているというのがあって。この曲は今でもライブでほぼ毎回演奏してます。もう1つは、ずっと尊敬していた元はちみつぱいの渡辺勝さんが参加していて、アルバム全編にわたってサポートしてくれたことです。アルバムのフォークロック色は勝さんの影響が大きいと思います」

2007年12月22日。祖師ヶ谷大蔵 cafe MURIWUIにて。船戸博史、渡辺勝と共にヒライとガイコツ樂團スペシャルとしてレコーディングライブをした。

――『こんな日を待っていたんだ』には友部正人さんのカバー『大阪へやって来た』も収録されています。友部さんと交流があったのもこの頃なんですか?
「そうですね、『こんぺいとう』の帯で友部さんのコメントを使わせてもらったんです。で、そのリリースライブで友部さんと共演して、はじめてお会いしました。その時は渡辺さんと双葉双一さんも出演してましたね。友部さんの音楽はずっと好きで聴いてましたし。あと、友部さんの奥さんのユミさんからいただいたアドバイスも、僕にとっては人生レベルで影響を及ぼしてて。というのも当時、『斜陽』のレコーディングがうまくいかなかったので、収録を見送ろうとしていたんです。そしたらユミさんが『絶対に収録しろ』と言うんです(笑)『どんな形でもいいので、曲ができた時に収録しないと、その次は新しい曲のことを愛してしまっているから』と。それで、『もう1テイク試してみよう』となり、歌も同時に一発録りしたものが、結果的にはアルバムの、それも1曲目に、収録されることになったんです」

2005年。人前式の結婚式で証人役を引き受けた友部氏。

――それだけ難産だった曲が、結果的には今でもライブで演奏される代表曲の1つとなっているのが感慨深いですね。
「逆に言うと、レコーディングに100%満足していたら、ライブではやらなくなると思います。ライブで演奏する度に、何か新鮮な発見があったり、何か先に進める余地があるから、まだやっているのかもしれないですよね」

――ヒライさんご自身が特に思い入れのある楽曲を挙げるとしたら、どの曲ですか?
「難しいですね…(笑)この間、常盤ゆうさんというミュージシャンと2マンライブをやったんです。常盤さんが選曲してくれたマガズロの楽曲を一緒に演奏するという内容で。その時、常盤さんもやっぱり『斜陽』を選んでてくれて。それでライブ中に『1番好きな曲ってあるの?』と聞かれんたです。うまく答えられなかったけど、1番演奏しているのはたぶん『斜陽』で、もし死んで地獄に行って、エンマさまに『お前1曲歌ってみろ』と言われたら、多分『斜陽』を歌うと思う、と答えました。自分がどういうふうに生きてきたのか、全て詰め込める曲なんだと思います。何か言葉にならない気持ちを全て受け止めてくれている気がするんです」

――『斜陽』が完成するまでのプロセスが知りたいです。パッと思いついたのか、練りに練ったのか。
「サビのフレーズとか、アイディア自体はすぐに出てきたんですけど、それまでのマーガレットズロースの曲に比べるとロマンチックすぎるというか、メンバーは当初抵抗を示したんです。いつになっても違和感があるというか、制作過程のような感覚があるんですよね」

――その頃から今に至るまで、創作のインスピレーションはどのように変わりましたか?
「テーマは全然変わらないですね。同じことを違う角度で歌っているというか。大きいところで言うと、生きるとか死ぬとか、そういうことだと思うんですけど。自分が経験したこととか、思っていること以外の、フィクションや想像で歌うことはできないタイプで。自分が身を置いている生活や環境は変わっていくものなので、そういった意味では、曲に現れる景色は変化している部分はありますね」

――自分について、ということですね。
「そうですね。猫を飼えば、そのことについて歌うし。結婚して変わった部分はあるかもしれないですね。それまでは『幸福』をテーマに歌を作るのって結構難しいと思ってたんです。共感しにくいというか。結婚後は、自分の小さな幸せについて歌って、それで人々がつながっていく方が世界が平和に変わっていくんじゃないか、と思うようになりましたね。あと、『ロックンロール』とよく言うようになったのも大きな変化かもしれないですね」

2015年5月。熊本県荒尾市の自宅にて。
2021年。大分県別府市の自宅にて。愛猫らむと。

――「ロック」って定義が曖昧というか、思い浮かべるアーティストとかサウンドも人によって違うと思うんです。いわゆるペンタトニックスケール的なことなのか、ディストーションをかけたギターサウンドなのか、歌詞の内容なのか…。ヒライさんにとって「ロック」(あるいは「ロックンロール」)の意味って何ですか?
「世の中的にはジャンルの名前であり、精神性のことを指すことが多いですよね。僕は、『説明とか前提とか、予備知識なしで人の心を掴む力があるものがロックンロール』だと思っています。なので、それは音楽とは限らなくて。『何か分からないけどすげー!』っていう感覚について、長らく言語化できていなかったんですけど、ある時、『これがロックンロールなんじゃないか』って思ったんです」

――サウンドとかビジュアル面より、どちらかというと精神性や気持ちの部分なんでしょうか?
「ファッションとしてのロックンロールにはあまり興味が無くて。革ジャン着たり、いかつい感じは苦手なんです。むしろ僕みたいなへなちょこな人間でも『ロックンロール』って言ってもいいじゃん、て思うところがあって。それまでは独自の音楽を作らなければいけないという気負いがあったんですけど、今はむしろロックンロールの恩恵を積極的に享受しよう、という気持ちに変化して。人類の偉大なる発明ですしね。僕にとっては『ロックンロール』って言うだけで力が湧いてくる魔法の言葉なんです」

――合言葉としての「ロックンロール」。いいですね。『ロック』にはどこか青臭いイメージがあるというか、「もう、いい大人なんだし」を感じる人もいると思うんですけど、ヒライさんの場合はむしろ歳を重ねたからこそ、腑に落ちたというか。
「僕は人と時間の感覚がずれてて(笑)流行っている音楽もその時は全然分からないんですけど、2、30年くらい経ってから良さが分かるというか」

――ロック、あるいはフォークをベースにしつつも、作品からは多彩な音楽性が感じされます。継続的にリリースを重ねてきたマガズロですが、スランプとか創作へのモチベーションが上がらないこととかってありましたか?
「2011年から2012年にかけて、九州・熊本に移住したての頃は生活をすることに必死で、創作からは遠のいてましたね。バンドとスタジオに入ることも無くなってしまいましたし。ただ、その頃は自分の表現を音楽に限定する必要はないんじゃないかと考えていて。絵を描いたり、田舎だったので、竹がたくさん手に入ったこともあり、竹でスプーンやフォークを作ったり、コーヒーの焙煎もしてましたね。そういった技術を身につけて、なんとか生計を立てていました。『やれるんじゃないか』と直感的に思ったことは、やれるということが分かったので良かったです。『俺がやるべきなのはやっぱり音楽だな』と改めて思えましたし。

その後、大分の別府に移住して、そこからは音楽に専念してますね。スランプというよりは『音楽だけじゃなくてもいいじゃん』という時期だったんだと思います」

2015年7月。熊本県山鹿市 アサヒにて。ヒライ家の家族バンド「nelco」のライブ翌日。大分県別府市に移住した直後の熊本ツアーだった。

――もともと音楽以外の表現もされていたんですか?
「そうですね、バンド活動をしている中で、フライヤーのデザインも自分で手がけたり。そしたらイラストの仕事も来るようになったり。けど、『俺にしかできないこと』かというと、いまひとつ自信が持てない部分もあって。それでも他に頼める人もいないし、仕方なくというところもあり(笑)マルチなことがしたかったわけではないんですけど、流れでそうなっちゃったんですよね。コーヒーの焙煎にしても、ツアー先のカフェで小さな焙煎機をもらったのがきっかけで。それで試してみたら、美味しかったので。音楽活動の中で、派生してやり出したことが、仕事になることもあるけど、やっぱり軸は音楽なんですよね」

マーガレットズロースの企画ライブ「藪こぎ」に友部氏が出演してくれた時のフライヤー。はじめて友部氏のバックバンドを務めた。フライヤーのイラストはバンド結成当初からヒライが担当する。

――2004年に4thアルバム『ネオンホール』がリリースされます。新曲のライブレコーディング、というこれまでにないアプローチでレコーディングされた作品となりました。
「新曲がメインなんですけど、1stアルバムに収録されている曲や、未発表曲も入ってます。ライブアルバムを作るためにレコーディングしたというよりは、一番いい録音方法がライブだろう、ということで実現しました」

2004年。ネオンホールの姉妹店 ナノグラフィカにて。トイレのタンクには今もヒライの描いた絵が残っているはずだという。撮影は当時のネオンホール代表、清水隆史氏(現 OGRE YOU ASSHOLLEベース)。

――前作から1年足らずでリリースされてます。当時は創作意欲がスパークしていたというか、曲を書くスピードも早かったんでしょうか?
「そうですね、というのも当時、友部さん主催の『LIVE! no media』というイベントに参加していて。詩人とミュージシャンが詩の朗読をするんですけど、そこで歌詞ではない詩をはじめて書いたんです。後にそれにメロディーをつけたのがネオンホールの収録曲になりました。『べいびー』とか『穴』はそうですね」

――この頃の楽曲については、今どう思われますか?
「一番イタいというか…(笑)ある意味、『敵わないな』と思わせられますね。当時は『ライブでぶっ倒れて死んでもいい』って本当に思ってたんですよ。僕らの青春を1番爆発させている作品ですね。色々と経験した今、聞くのが辛い部分もあるんですけど…。けど、もうこんなことできないなという気持ちもあって」

――4thアルバム以降、ミディを離れ、5thアルバム『DODODO(どどど)』がリリースされます。少しレゲエの要素もあったり、音楽性がガラッと変わった印象を受けました。
「そうですね。『ネオンホール』まではいかに生の状態を真空パックにして、音源化するかというところにこだわっていて。リアルを超えた奇跡を作品化したかったんです。けど、やっぱりライブとレコーディングって違うんじゃないか、ということに気づいて(笑)逆に、リスナーにとっては僕のそういう気持ちが邪魔なんじゃないかと思えてきたんです。というのも当時、テレビでオペラ歌手の人が『自分の感情を入れないようにしている。そうじゃないと、聴いている人が自分の感情を入れる隙間がない』と話しているのを聞いて、腑に落ちたんですよね。『DODODO(どどど)』はレコーディングというのもに正面からぶつかっていった最初の作品ですね。

レゲエ的な要素について言うと、フィッシュマンズの影響が大きいですね。よくお客さんから『フィッシュマンズお好きなんですか?』と聞かれることがあって、『空中キャンプ』というアルバムを聴いたんです。最初はピンと来なかったんですけど、何かのきっかけにCDに合わせて歌ってみたら、めちゃくちゃ気持ち良くって。それこそロックンロール的な『なんだこれ!』状態で。それでマガズロの中にもレゲエやダブの要素を取り入れるようになったんです」

――なるほど、だとすると6thアルバム『ぼーっとして夕暮れ』で感じられる浮遊感とか、シンセサウンドが導入されている点についても、納得感があります。
「僕の声って実はそれほどロック向きではない気がしていて。けど、フィッシュマンズ的な音楽性を意識するようになってからは、楽曲によりフィットするようになったんです。自主レーベルを立ち上げてから関わってくださっている松本賢さんというエンジニアの方がいて。松本さんはシンセサイザーの音作りを行うマニピュレーターのお仕事もされているんです。で、『ぼーっとして夕暮れ』のレコーディングで、松本さんに欲しいサウンドのイメージを伝えるために、YEN TOWN BANDの『Swallowtail Butterfly ~あいのうた~』 を聞いてもらったんです。あの、音程がなだからにグラインドする感じが欲しかったんですよね。そしたら、そのシンセサウンドを作ったのが松本さんだと判明して(笑)」

――この時期の作品については今、どう感じますか?
「懐かしいというよりは、現在進行な感じですね。全然、辻褄が合ってるというか。そういう気持ちの時はライブでも演奏します」

――そして、2009年に7thアルバム『マーガレットズロースのロックンロール』をリリース。ここでまたロックンロール回帰というか、大きく舵を切ります。
「子供が生まれて、世界が変わるイメージが浮かんだんですよね。それまで『薮こぎ』という対バンシリーズをやってたんですけど、この頃から『世界は変わる』というシリーズを立ち上げたんです。『薮こぎ』の頃は盟友というか、ライバル的な存在でもある、同年代のアーティストたちを呼んでたんですけど、『世界は変わる』では野狐禅とかフラワーカンパニーズとか、ちょっと頑張らないと声をかけられないような、先輩たちと共演、というより挑戦するようになって。子供が生まれて『なんだこれ!ロックンロール!』となっていた頃のエネルギーを落とし込みたかったんだと思います」

――このアルバムについては今どう思われますか?
「自分で聞き返すこととかはそれほどないんですけど、『世界は変わる』とか『マーガレットズロースのロックンロール』なんかは今でもライブでやること多いです」

――「ロックンロール」をタイトルに入れるのも大胆だと感じました。
「僕と他の人たちとの間で、『ロックンロール』の解釈にズレがあることについて、そこまで考えてなかったんですけど、友部さんからは『スローガンみたいに聞こえる』と言われました。(笑)『ロックンロール』を発見した歓びを説明できないまま連呼しすぎたので…。誤解を生みやすい危険な言葉ではありますよね(笑)」

――そうですね、けど今回こうやってヒライさんがご自身の定義を明確にしたのは意味があると感じます。楽曲の聴き方も変わってきますし。
「そうですね」

後編へと続きます。近日公開されるので、ご期待ください!

インタビュー・テキスト/midizine編集部

ヒライマサヤ
新潟県出身 大分県別府市在住
1996年結成のロックバンド、マーガレットズロースのVo.G.
2001年 1stアルバム「雛菊とみつばち」(カフェ・オ・レーベル)でCDデビュー。
その数々のオリジナルアルバムを制作する他、友部正人のアルバム「Speak Japanese American」、高田渡トリビュート「ごあいさつ」に参加するなど、東京を中心に精力的にバンド活動を展開。
2011年 3.11を機に熊本県に移住。ソロ活動をメインに雑貨屋、カフェの運営にも携わる。
2015年 大分県別府市に拠点を移し再び精力的に音楽活動を展開。平井正也BAND、The Old&Moderns、ヒライマサヤと片山尚志など様々な形態で次々に音源を発表。

RCサクセション、ブルーハーツ、フィッシュマンズと続く言葉の強いロックの血を勝手に受け継ぎ、
常に音楽界の流行から2、30年の遅れをとりつつも初期衝動を貫き通す稀有な存在。
心臓にギターを突き刺し、毛穴でうたう、不良性にかけるロックンローラー。

nelco web(オフィシャルHP)
http://www.nelco-web.com

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