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空港のど真ん中で母にビンタされた話

成田空港のど真ん中で母から強烈なビンタを食らったことがある。

頬がジンジンと熱を持ち一瞬何が起きたか分からなかったが、事実がカラダを一周すると「ああ」と痺れは去り、そしてやがて大きな解放感で満たされた。

その夏は特に暑さが厳しく、それは台湾も日本も同じだった。
小学3年生、4月生まれの私は周りより早く9歳になっていた。
それまでも毎年、夏休みは丸々母に付いて渡台していた。
滞在先はホテルではなく、母の恋人の家。

物心ついた時から既に彼はいた。
「ダディと呼びなさい」と母が珍しく柔らかい顔つきで言っていたのを覚えている。
1年生で初めて授業参観があった際に、どのクラスメイトも父親が1人しか来ないことを疑問に思ったが、
その後、火サスで普通は父親が1人しかいないことを知った。(そしてなぜ母が「ダディ」の存在を口外するなと言ったのかも)
台湾での滞在はいつも1〜2ヶ月間、ひどい時は3ヶ月近くも続いた。
当然夏休み(春休みや冬休みの時もあった)は終わっており、私は大抵学期の途中で登校せざるを得なかった。

小学校に入る前、私はずっと母と台湾にいた。おそらく恋人の彼も一緒に。
父は仕事があるので日本にいたが、戻らない私たちをどう思っていたのだろう。
幼稚園には通わず、母の姉が働く台湾の三越デパートの化粧品売り場を毎日自由に駆け回っていた。
私は小さいながら口が達者だったのでデパートではもう有名になっており、売り場のお姉さんお兄さんはとても優しかった。

一度だけ日本の幼稚園に通ったことがある。
母が日本に一時帰国したひと月だけ、初めて同年代の子供との集団生活を体験した。
幼稚園も日本語もよく分からず、加えて猛烈に個性が強かったため馴染むことはなかった。歯が真っ黒でとてつもなく意地悪な女の子がいたことだけは覚えている。
しかし今思うと、そこまで意地悪だったかは怪しい。
何故ならそれまでの私は大人に囲まれてぶつかることなく育ってきた。
大人との対話はぶつからない。彼らと意見が食い違う時、そこにあるのは譲歩か命令だ。
大人は優しいが、優しいのは対等でない証でもあった。
こちらが全力でぶつかっても、そこに話し合いの余地は無い。
だから私は真の意味でいつも一人ぼっちだった。
大人はこちらが静かにさえしていれば、頭の中でどんな世界を作っていても干渉してくることはないのを知っていた。
しかし子供は違う。放っておいてはくれない。
関わり、共有しようとしてくる。
当時はそれがとてつもなく恐ろしかった。

母は自分の都合で人を振り回すが、その代わりこちらに大した関心も持っていなかった。そういう意味で私は自由だった。
そして幼稚園に通ってひと月が過ぎ、私は帰っていった。
あの自由だけどちょっぴり虚しい世界に。

2年生の終わりだったか、ふと母が呟くように言った。
「もうあの人のところには住めないんだって」
私に伝えるというより、自分に対して言っているようだった。
私たちは台湾に買った小さなワンルームに滞在し、私はその頃「彼」に会っていたかどうか記憶が定かではない。
しかし母はたまに私を従兄弟のいる叔母の家に預け、出掛けていたような気がする。

ちなみにその頃には(それまでもだが)母と父の関係は最悪で、家でも外でもしょっちゅう喧嘩が起こった。
やはり台湾人である母の方が怒りを激しく表現するので、子供からするといつも母が父を怒鳴り散らしているように見えた。
一人っ子である私は、どんなに激しい喧嘩になっても完全に蚊帳の外で、
そんな時どうにもできない無力な自分がもどかしかった。

父は仕事が忙しく、月の半分は海外に出張していたのであまり会えなかった。
それなのに私は父が大好きだった。
申し訳ないけれど、ずっと一緒にいる母よりも、父と過ごすゆったりとした時間が好きだった。
母から愛情を感じないわけではない。しかし所詮自分は彼女の所有物なのだという思いが拭い去れなかった。
所有物というのはつまり、私を「大事に扱う」のも「壊れるくらい傷つける」のも、その全ては彼女次第だということを意味している。
だから私はいつでも警戒した。
いつでも母の顔色を窺い、その心の空模様を正確に読み取ろうとした。ただ安全のために。
父はドライだが、頭が良く理性的で何事にも動じない人だ。
子供の私とは常に少し距離があったが、それが私に安心感を与えた。
そんな父を攻撃する母に、また日々父の悪口を娘に垂れ流す母に、私は心の奥底で反撥心を抱いているに違いなかった。


そしてあの夏、決定的なことが起こった。

台湾で過ごす3年生の夏休みも、終わりに差し掛かった頃。
母に一本の電話が掛かり、彼女は私を叔母の家に置いて慌てて出て行った。

恋人が仕事先で事故に遭い、病院に運ばれたのだ。
詳しいことは分からない。とにかく母はその知らせを聞いて病院に走った。

そしてそこで出くわしたのだという。彼の婚約者に。

自分より若い女性が病室にいて彼の面倒を見ていた。
そしておそらく母はその時に、彼に別れを告げられたのだった。

どうしてその事を子供の自分が知っているのかというと、いつも通りすぐそばで叔母に話していたからだと思う。
母は台湾人らしく非常にお喋りだったが、昔からそばにいる私の存在は無いものとなっていた。
顔色を変えず、静かに絵を描いたり本を読んでいた私を、母は話を理解していないと判断したのかもしれない。
母が姉妹に話すのは中国語ではなく客家語であったから、客家語を話せない私には分からないのではないかと。
しかし母に言ったことはないが、私は客家語を完全に聞くことができた。
そしてこの時も、姉妹の会話から事の顛末を知ったのであった。


時計の針は動揺することなく進み、私たちは日本に帰国した。

帰国するまでの間、私があの話に触れることはなかった。
しかし意外なことに、日本へと向かう機内で母は耐えられなかったのか、窓の方に顔を向けて言った。感情を押し殺した声だった。

「あの人婚約者がいたのよ。…病院で会った。」

読んでいた小説が山場を迎えていた私は、突然耳に入ってきた言葉に面食らった。
台湾にいる間、他に日本語の本が無くて何度も読んだ本だ。続きなど気にならない。しかし小説から目線は外せなかった。

「そうなんだ。」

やっと喉に張り付いた言葉を押し出したが、もう次に出せる在庫は残っていなかった。

「若い女だった。」

ムカつく、と消えそうな声が聞こえた。

小説を見る右目の端で、窓に向く母の後頭部を強烈に意識しながら、私は考えていた。
母に今何を求められているのかを。
何を言うべきなのか。
また何を言ってはいけないのか。
しかし隣にいる母が、少しの振動で今にも破裂しそうな気配を感じて、最終的に口をついて出たのは単なる確認だった。

「じゃあ、…もう会わないの?」

「そうよ。」

即座に固い声。
表面がプライドでコーティングされていた。
私はもう興味のないふりをして黙るしかなかった。

9歳の私は、自分が何を感じているのか掴み切れずにいた。
ただ、この場で母と対等にやり取りのできない自分が猛烈に悔しかった。
その悔しさはいつもずっとあったけれど、今がまさにその絶頂だった。


隠していた機体の小さな車輪があらわになり、日本の地を擦った。
空港に出ると懐かしい日常の匂いがした。
永遠を感じた暑い夏休みにも終わりが来たのだ。
しかしこの空気が或いは私たち2人を油断させたのかもしれない。

空港の道を進む途中、引き摺っていたトランクの上に乗ったポシェットを落とした母は舌打ちをしながら拾い上げた。

「…ああもう」

小さなポシェット以上の重みが乗るその苛立った声に、私は思わず母の顔を見てしまった。見てしまったのだ。

ここは「彼」のいる国ではない。
それがおそらく気を張っていた母を萎ませたのだろう。
母は世界中の不幸を一身に背負って犠牲になったような顔をしていた。


「よかったのかもよ」

考える前に口が動いていた。
私はとにかく母のその顔を見て、頭とつま先の血液がグルン!と急速に入れ替わるのを感じた。

母の「は?」という忌々しそうな目を見たら、もう二度と止められなかった。

「ちょうどよかったんだよ。きっかけができて。」

ああ、母よ。

なんて 勘違い甚だしく哀れな人なんだろう、という慈愛にも似た念。

なんで 悲劇の真ん中に投げられた生け贄の様な顔をしているんだ、という激しい憤り。

手綱を失った2つの思いが競うように私の中を駆け巡っていた。

「だってお母さんあの人と結婚する気なかったんでしょ?彼からしたら未来が無い関係だよ。ずっと続けられないことはわかってたわけだし、むしろ今回の事はお互いのためによかっ——」

私は最後まで言うことができなかった。
母が冒頭の通り、私の頬に力一杯のビンタをお見舞いしたからだ。

空港中に響き渡るバシーン!という派手な音。
周りの人は動きを止めていた。
おかげでコントロールを失っていた私の口も止まった。

母を励まそうとする気持ちも確かにあった。
だが半分以上は自分の存在を母に知らしめたかったに他ならない。

ふざけるな、

ふざけんな。

思考より先に身体の言葉を聞いた。

私は叩かれて熱を持つ頬を触りもせず、生身のまま母を睨みつけた。
睨むということは、相手の一挙手一投足を見逃さないということ。
私は叩かれた後に俯いてその場をやり過ごすほど、母を信用してはいなかった。

直後、地獄を絞ったような声が聞こえる。

「誰の…誰のせいだと思ってんの…!!あんたがいなかったら、あんたさえいなかったらねえ…!!!」

母は激しい怒りを私にぶつけていた。
聞く前から言いたいことはわかっていた。
母のあの顔。不幸を背負って犠牲になった、あれは私の犠牲になったと言いたいのだ。母は私のために生贄になったと。


ふざけんな


ぐっと目の奥で堰き止めた。

私は、自分が彼女の身勝手な悲劇のダシに使われたことが1番許せなかった。
彼女がこれまでの私の痕跡を全て踏みにじって、その破れた切れ端を都合良く新たなストーリーの一部に組み込んだことが許せなかった。

母よ、あなたにこの憤りがわかるだろうか。
母よ、あなたにこの悔しさは伝わるだろうか。

あなたはもう私に背を向けて歩き去っていったけれど、それでも最後まで睨みつけたかった。
だけど私は、この頬の強烈な痛みと、この気が遠くなる程の屈辱と引き換えに得たものを二度と離しはしないだろう。

頬を叩かれるのなんて珍しくなかったが、それはいつでも子供の私が言う事を聞かない時だった。
自分の思い通りにならない、親から子へのビンタ。支配の中の制裁。いつでもそうだった。
しかし今は違う。
母は不都合なことに触れられ、聞きたくない言葉を浴びせられて親と子の枠を超えて怒った。母と娘ではない。自分から他者への純粋な一撃。
母と私は、この瞬間初めて対等になったのだ。

だからこの瞬間に私の中を渦巻いていたのは、悲しみでも恐怖でもない。
純粋な歓喜だった。
やっと自分自身の正体を見極め、他者の中に存在した歓び。支配からの脱却。自由の奪還。
その全てが「存在の責任」という重みを持って私の中におさまった。

大丈夫、私はもっと強く自由になれる。
この傷みと重みが私をさらなる場所へと押し上げていく。

もっともっと憤りを突き出せ。

このちっぽけな存在を、全力で世界にぶつけていけ。

そして抵抗の火の粉をその身にかぶれば、
やがて虚しさが消えて生きがいだけが残るだろう。


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