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Wakana Kimura 木村若菜「異文化」(2日目)

初日の記事に書いた(1日目の記事はこちら>>
J先生にお会いした土地。 

アメリカのアイオワ州という片田舎で幼稚園、小学校と通った私はその学校で唯一の日本人だった。中部というお土地柄、他の子供達はほとんどみんな白人のアメリカ人でカリフォルニアなどでは 

「うわ、大変だったでしょ。虐められたでしょ。」とよく言われる。 

ところが、真実は全く逆だ。 

言葉も文化もわからないところで、周りには本当によくしてもらった。 
私はあっという間に日本語を忘れて英語を喋る様になり、周囲からの特別扱いもなく、一個人として場に受け入れてもらった。 

自身がどんな見た目をしているかなど、周りも私も考えたことは一度もなく、みんなと仲良く楽しく 毎日過ごしたのを覚えている。 

それとは逆に、 

幼少期に 私が最も受け入れられなかったのは、幼稚園で離れた天城湯ヶ島町 月ヶ瀬にアメリカから数年ぶりに帰ってきた時だった。

 同級生は既に何百もの漢字を知っていて、私は自分の名前すら満足に書けない状態で、今度は日本語に苦労した。  

しかしながら、こちらでもクラスメイトが甲斐甲斐しく世話を焼いてくれたので馴染むのには時間がかからなかった。成績もすこぶる良くなって、特にクラスの男の子たちがとても優しく助けてくれた。 

しかし、 そこが女子のボスであるC子さんの琴線に触れた。

 能天気な私は、「言葉がわからないからかな」と一生懸命 勉強して成績を上げ、社交的にするほど仕打ちが激化するという悪循環で、子供特有の際限を知らない陰湿かつ暴力的な虐めに合った。 
(不快な内容な為、詳細は省くが、)
最後は額に大きな怪我をして血だらけで父の病院に運ばれた。顔のカバーから隙間を除くと、父が私の顔を縫っていた。 

何針も縫う怪我でさすがの両親も何か学校で起きているのに気づいたのか、それともただのタイミングなのか、ほどなくして私たち家族は三島に引っ越しすることになった。 

アメリカに外人として入った時は暖かく受け入れられて、日本の故郷に「アメリカ帰りの日本人」として帰った時にはアウトサイダーとして受け入れられないというのもナンセンスな話だと思う。

 新しい土地に行くと、どこでも似たような様相が成り立っている。 

強いもの、弱いもの、どの社会でも全て見た様なキャラクターが入り混じって展開する。美術やアートを含めた文化や言語は、決して感覚的なものではなく教養として習得が必要で、会話を成立させるのにある程度は学ばなければならない分野だ。しかし、その上に乗る個性なんてものはあって無いようなもので、人間の違いは誤差の範囲だと私は考える。 

私が個々とか文化の違いとかコミュニケーションをテーマに絵画を制作する原点がここにある 。 

話が小難しくなってきたので今日はこの辺で。。。 

作品をご覧になっていない方はぜひ以下のリンクから私のウェブサイトを覗いてもらいたい。 

 令和4年3月14日
三島にて。 
Wakana Kimura / 木村若菜
@wakanakimurastudio
WAKANAKIMURA.COM

(Wakana Kimuraの3日目の記事はこちら>>)

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2011 CHARACTER(detail), Mixed Media, 396in x 86in (consists from 9 panels) © Wakana Kimura

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2011 CHARACTER (installation shot), Mixed Media, 396in x 86in (consists from 9 panels) 
© Wakana Kimura

Wakana Kimura 2022 マイクロアートワーケーション
全7話 記事リンク一覧

1、Wakana Kimura「一期一会」(1日目)
2、Wakana Kimura 「異文化」(2日目)
3、Wakana Kimura 「望郷の念」(3日目)
4、Wakana Kimura 「こっちの道」(4日目)
5、Wakana Kimura「美しさ」(5日目)
6、Wakana Kimura「アーティスト」(6日目)
7、Wakana Kimura「まとめ」(最終回)


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