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五感の記憶 隅田川

東京という街は、なんとも不思議な街だ。
久しぶりに来ても感慨深さを感じさせない。

何故だ。

半年前に訪れた時もそうだったが、まだ今でも住んでいるかのように、当たり前の日常かのように、数ヶ月前まで毎日通っていた場所をただ歩いている。


母と祖父の誕生日祝いを兼ね、新国立劇場バレエ団の公演観たさに半年ぶりに東京を訪れた。



以前、蔵前の職場で働いていた。隅田川の側だった。

川の流れを見、音を聞くことにどうしようもなく惹かれるのだが、朝早く出勤して、もしくは退勤後に、隅田川沿いでジョギングしていた時期がある。バレエのレッスンを再開した頃には、早く上達したくて川辺の柵をバー代わりにバーレッスンをしたこともある。仕事で疲れ切った時には、帰宅する前に隅田川沿いのベンチでアイスを食べながらぼーっと黄昏たこともある。

川が好き、水がある場所が好き、それは確かだが、昔から隅田川そのものにも思い入れがあった。

関東にある母の実家を偶に訪れ、そこから東北の自宅に戻る時、大体高速バスを利用していた。東京駅で崎陽軒のシウマイ弁当を購入しバスの中で食べる。東京駅から東北方面に向かうバスは東京駅から割とすぐに首都高に乗る。
バスの左側の席が取れると窓から隅田川が見える。首都高から見える隅田川には夕日が差し、川面はオレンジ色になっていた。ワクワクして楽しかった旅が終わりに近づき、夢から醒めるような物悲しさを幼ながらに感じていた。でもそんな景色を眺めるのがなんとなく好きだった。
進行方向右手には、アサヒビール本社の金の泡のオブジェが見える。汚い話しで不快にさせたら申し訳ないのだが、コレを我が実家では昔からビッグベンと呼んでいた。どうも最初からそれにしか見えなくて…。そんなことを母と笑いながら喋っていたことを思い出す。とてもくだらないが、家族の誰かしらがビックベンの前を通ると、未だに家族LINEに報告が来る(笑)
(ちなみにこのテキストを書くにあたりオブジェの正体をきちんと調べてみたら、金の泡でもないらしい…。「聖火台の炎」とのこと。はて、とんだ勘違いでした。
出典:https://www.asahibeer.co.jp/customer/post-5.html


大学時代に映画を作っていた時にも隅田川の記憶は活躍してくれた(と勝手に思っている)。
私はその作品にロケ地探しや交渉、その管理をする役割で関わっていた。主人公が東京を飛び出し地元に戻るシーンで入れる実景のロケ地について、監督をしていた同期に相談された。無意識に隅田川をイメージしてそのシーンの台本を読んでいた為、私にしては珍しくすぐに提案することができた。入り乱れる首都高を抜けた先に隅田川が見えるあの景色が、直感的にそのシーンにしっくりくると感じていた。結果的にはその場所の画が使われたわけではなかったが、ひとつのアイディアの入り口として、隅田川がフックになってくれたことは確かだった。


大学卒業後東京に住むようになってからも、実家に帰る時は専ら高速バスを利用していた。東京駅を出発すると、Google Mapを開く。マップ上を動く現在地と、現実に広がる景色を照らし合わせながら、東京の地理を楽しんでいた。隅田川でジョギングしている景色を反対岸から見る不思議。そして反対側から自分の職場を見つけるのが密かな楽しみだった。あれ?今日は休日なのに、電気が点いているぞ?きっと課長が休日出勤しているんだろう。係長にバレたら「何で休日出勤してるんですか?ルール違反ですよ?」みたいなことをいつものように言われるよ…なんて思いながら。



久しぶりに来た隅田川は今まで通り、なんだか生臭かった。


マスク生活になってから、あらゆる記憶はマスクと共にある。不織布マスクの化学製品の匂い。布マスクを着けていた時期には柔軟剤の香りと共に。
余談だが、久しぶりに布マスクをつける時には、引っ張り出した布マスクから柔軟剤の甘い香りがして、あぁあの時期はこの柔軟剤を使っていたんだなぁという記憶が引き出される。


平日昼間の隅田川は周りに人が居なかったのでマスクを外してみた。
う〜ん生臭い。
生臭いというか海の匂いに近いのかもしれない。
あぁこれだ、この匂いだ。
ジョギングやバーレッスンをしていた頃はコロナ前だったので、"隅田川=生臭さ"で脳に記憶されている。


今回蔵前に来た目的は2つあったが、内1つは「ただ隅田川沿いで黄昏たい」だった。


もう一方の目的を先に済ませていた私は、時間が無い中急ぎ足で隅田川に向かった。
マスクを取りつつ、隅田川の河川敷に出る前のデッキの階段を上る。階段の上からビックベン、スカイツリー、首都高を見渡す。見慣れた景色。


記録魔の自分が何の躊躇いも無く顔を出す。
写ルンですが鞄に入っている時、蔵前を去る時、蔵前に久しぶりに来た時、飽きもせずにいつも同じ景色を同じ角度で撮ってしまう。出来上がった写真を見ても結局飽き飽きするのに。それでも、自分の記憶の中に定点観測記録を残しておきたいという衝動が勝ってしまう。


その日は薄日が差しているものの雲が多く、スカイツリーは頭のてっぺんを雲に隠されていた。



あぁそういえば、東京に住んでいた4年半の内で、スカイツリーにのぼったことは一度もなかったなぁ。

前にお付き合いしていた人とスカイツリーの麓まで行ったことはあった。
けれどその日は曇っていたから、のぼるのをやめようと言って、プラネタリウムを見て、ソラマチでウィンドウショッピングをして帰った。当時安月給だった私は、曇っていて絶景が見られないとわかり切っているスカイツリーに、安くないお金を払うのは勿体無さ過ぎると感じてしまった。曇っていても、景色が見えなくても、それはそれで楽しめれば良かったのだけど、せっかくのぼったのにがっかりしたくないという気持ちの方が強かった。週に一回のデートを、毎回良いものにしたい!という気持ちも強かった。

何を期待していたんだろう。

多分、付き合う前に一緒に高尾山に登った時も天気に恵まれなかったからだ。晴れていて絶景を見られたらそれで満足できたんだろうけど、登っている最中の会話が少なくて、内心つまらなかったんだろうなぁ。でもきっとお互い緊張してドキドキしてるから会話が続かないだけだ…と思い込もうとしていた。優しくて良い人だし…楽しくないと思いたくなかったんだろうなぁ。上手くいきたかったんだろうなぁ。色んなことに蓋をして正当化し、目を逸らしていた。前々から、違和感を見て見ぬふりする癖がある。自分にも相手にも失礼だった。

お金の余裕も無かったし、心の余裕も無かった。



曇って頭のてっぺんが見えないスカイツリーも悪くない。
そんなことをうそぶきながら、蔵前のもうひとつの目的、とあるカフェの「くまボトル🐻‍❄️」を入手できた達成感に心満たされながら、くま越しのスカイツリーをiPhoneカメラに収めていた。


2021.9 蔵前との別れ①
2021.9 蔵前との別れ②
2021.12 蔵前再び①
2021.12 蔵前再び②
2022.6 モクモクスカイツリー
2022.6 モクモク隅田川
スカイツリーそっちのけで
くまボトル入手にご満悦
もはやくまがメイン🐻‍❄️


蔵前の滞在時間は約50分。いつもお世話になっていたコンビニに入ってみて、レジのおばちゃんが今日も居ることを確認し、時折お詣りしていた神社で手を合わせ、蔵前ルーティーンを済ませた。


駅に向かう途中で嬉しい偶然もあった。
映画『第三の男』の音楽(エビスビールのCM曲としても使われていた)が聞こえてきた。パンの移動販売の車だ。いつも仕事中に聞こえてきた音楽だ。そこでパンを買ったことは一度しかなかったけれど、これが蔵前での日常だった。


それでも深い感慨はなかった。不思議だ。まぁ無理に感慨に浸るのは嘘をついているようで気持ちが悪いからちょうどいい。


さぁバレエの公演の時間が近づいてきた。公演の前に情報センターで過去の映像を見る時間も欲しいから初台へ急ごう。
いつも通勤で乗り換えていた駅で乗り換えてみた。ここの駅では、毎朝駅構内を急ぎ足で歩いていると、立ち食いそば屋さんからめんつゆの匂いがしてくるのだ。とても良い匂いがいつも胃を刺激し、同時に何故だか心をホッとさせた。この日は昼だったからか匂いがしてこなかった。





神戸に戻ってきた。

戻ってきても感慨深さを感じない。

まだ心は東京に居る気分。
でも目の前に広がる景色は今住んでいる土地。近所の小学校も見えるじゃないか。
六甲山から爽やかな風が吹いている。梅雨入りしたはずだけど湿度がそれほど高くなく、サラッとしている。

あ、そうか、帰ってきたのか。

仕事のお客様が以前、六甲に来る人に対して「六甲の爽やかな風を感じて欲しい」と言っていたけれど、本当にこの地は爽やかな風が特徴的なんだなぁと実感した。(その代わり冬場は爽やかどころの騒ぎじゃないほどの風で寒いけれど…。)



そうか。
東京だから感慨深さを感じないのではなく、自分の"庭"が広がっただけなのかもしれない。東京に居ようが神戸に居ようが何の特別感もなく、ただ日常の自分が居るだけだ。

思えばこの10年間で4つの都府県に住んできて、1年の間に引越しをしたり実家に帰省したりで移動することも増え、感覚が変わってきたのかもしれない。


東京から神戸へ戻る新幹線ではシウマイ弁当を食べようかと思ったが、鮭とイクラのお弁当の誘惑に負けてしまった。とても美味しくて大満足だった。




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