現象は陰陽
中国の陰陽図に関心を持ったのは、30年くらい前だったろうか。
その頃は、これは何か根本的なことを表現しているものだ、何か自身が求めている大事なものだ、という漠然とした感覚だけがあり、その意味をよく知らなかった。
それで、これについて学びをすすめると、どうも現象の原理を表現しているとのこと。
現象とは相対する二極で成り立っているものだと。
その時は、確かにそうだなと、なるほど、男性と女性、昼と夜、喜びと悲しみ、平和と戦争、ありとあらゆるものが相対しているなと。
理屈としては理解したのだろう。当時は。
それで、この間ふと、この過去に理解したであろうはずのことにあらためてはっとさせられた。
ああ、なるほど、やっぱりそうだと。
というのは、僕の長年の大きな疑問。
「人類はなぜ争いをやめないのか」
「自然破壊をやめないのか」
争えば関係ない人までたくさん無駄に傷つき、無駄に死に、自然破壊は人類や生態系全体を脅かすことが明々白白なのに、なぜ人類はこの明らかに馬鹿げたことをやめないのかと。
裏を返せば、人類はそれをやめる理解と知性が潜在していると、どこかで期待していたのだろう。
現象は二極による流転。
なんだ、そのままじゃん。
陰陽がそのまま現れているだけだなと。
なるほど、これは永遠に止むことはないなと。
人類の知性や理解力とは無関係に、現象原理として起こっていることなんだなと。
まさに、現象で起きていることは、陰陽そのもので、そのまんまなのだなと。
だからと言って暴力を容認するとか、自然破壊を容認するという考えや衝動は僕にはわかないし、逆に反対運動を積極的に行いたいという衝動が湧くわけではないし、自身が誰かに暴力をされたらおそらく暴力で防御するだろうし、自然を犠牲にして生まれた工業製品を使い続けるだろう。
ついでに言えば
自分の身に起こっている、さまざまな思考や感情、この肉体の行為、反応も陰陽そのものだ。
もっと言えば
自分と思っている行為者としての自分など存在しないし(無我)、現象は常に変化し続けているし(無常)、因果によって無自性に起き続けている(縁起)。
ただ単に、そのようだなと納得し、疑問がなくなった。
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