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#54 受験秀才は学びの秀才へ変化する

大学ランキングと人のランキングは相関しない
大学ランキングや高校のランキングがマスコミを賑わす。相変わらず学歴は一定の社会的認知を持つ。一方、大学卒業がそのまま有意に年収に差を与えているかも疑わしい。単位の取得を得れば将来が保障されるものでもない。人生の金銭的収入以上に人生の価値は大学ランキングで決まるものでもない。

そうしたなかで、そろそろ大学生も怠ける手法を体得する時期が5月下旬かもしれない。長時間の自分のニーズにあわない講義を聴いて時間を潰すのことに疑問を持つのは自然である。そもそも講義方法にも問題があるかもしれない。前期試験はまだ先。あすは学校もある。夜更かしている。そのまま継続するとあすは確実に寝坊するだろう。この罪悪感との葛藤。

困るには才能とエネルギーがいる
葛藤するにはエネルギーがいる。易きに流れることは簡単だ。コンビニもあるしネット検索でなんでも見つかる。言い換えると、葛藤しなくていい時代である。講義室に座っていてもだから考えないという処世術が身につく。つまり、しょうがない・そういうもんだ、と肯定する。水道は出てあたりまえ。考えないということは、問い がないということである

疑問は問い ではない
疑問は漠たるものだ。はっきりしない。それに対して 問い は明瞭である。説明し他者に伝達され共有されるから、その方法を考えることになる。あらゆるテスト問題とはそういう手続きが基本である。だから問題には設定の様式がある。このようにして疑問から 問い が生まれるが、そもそも疑問すらないから、葛藤も考えもない。ひたすら問題をあたえられても、その意味がわからないのである。これは致命的ではないか?

学びとは、これでいいのだ、そういうもんだ、ではなく。これでいいのか?と思うこと。思って疑問にして問いを生んで問題を設定して、あらゆる方法をためして追求していくことである。これはなにも子どもにかぎったことではない。

なんとなく学校
近代社会というのは個人が、分業と協業の資本主義システムに組み込まれる。だから教育は個人の集合体を国民として教育し、強制する。国民の三大義務はその資本制度の維持に不可欠である。教育・勤労・納税は全人生である。高校進学にしてもなんとなくいかないとまずいというはそういう社会的強制力がなんとなくわかるからだ。そもそも学びたいわけではない。

不活性化した知識は役立たない
社会は、教科別に構成され生活しているわけではない。レジの支払いに算数と数学の能力は必要だが、数学を使っていると意識しない。自動的にそうしている。数学以外にも記号と文字で商品を選別し、内容量や原材料の成分表をみる。ここでは言語も数学も科学も使う。教科を単線の鉄道にたとえると、各教科ごとに路線があり教科目標の終着駅がある。それは化学・物理・生物のように複線化はされてる。しかし、相互乗り入れできない。

実社会は相互乗り入れである
社会は自由であるというのは相互の関係性がある複雑系である。相互乗り入れが必要なのだ。学校では実社会の経験と他の知識相互の関係なく不活性化した知識の伝達に終始し、そのゲームの勝者が社会階層の上位にたつ。効率的に東京に行けるかゲームは、新幹線の切符の持ち主のみが東京にいけるようなものだ。いや、飛行機かもしれない。

人は恋し愛することができる。このようなメタファーで学校を考えるとき学びとは、疑問がなくてはならないというこになる。疑問の前提は感性である。五感。それすらも脆弱であれば学び手の学習能力が低下しているのかもしれない。おなじように学び愛することがなぜ人は困難なのか。受験秀才は学びの秀才とはかぎらないのである。








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