#48 学校で群れるか群れないか 



学校は群れで生活する。群れの中では、いじめ・いやなこと・ときに友達もできる。その群れは意図的組織でだれも望んできたわけではない。偶然だ。偶然のサブシステムとして友人関係ができる。これはシステムで操作できない領域、その操作できないもを操作するとエラーになるに決まっている。この「学校」という文字を、会社、地域、職場・・・となんにでも置き換えていい。世の中の組織とはそういうものである。

群れて、友人を見分けたり、自分とはなにかを他者目線でみつけたりする。自分がどのような人間で、あいつとは馬が合うか会わないか、などなど考える。これは自分が他者にはたらきかけてj自分を操作するしかない。これを自己調整、コラボレーションという。

そういう時間があるのが学校の群れるシステムだ。とすれば、学校はないよりあった方が良い。それはひとが他者と共感する機能を強化するからだ。自分一人だけが幸福になろうとすると他者の幸福をはく奪する可能性がないとは言えない。そういう場面にでくわすことができるのだ。つまり調整。そこにはまず感情の発達がいる。

コミュニケーションとはそもそも感情からはじまる。言語は感情であって文字も音声も、そのための記号である。小説でも論文でも。われわれは文字から感情や感覚を読み取ろうとするはずだ。

わかりやすいのはお金である。お金は交換や貯蔵のできる道具であり、ひろくは記号である。

いま、全世界の数%の人間が全世界の半分以上の富(お金)をにぎることができているとする。ここでは分配は機能している、でも、その機能は人間の幸福になっているかどうかはわからない。とくに大多数の人間にすればそれは公正ではないともいえる。幸福(不幸)には感情がある。幸福(不幸)感という。その感情の自分の幸福(不幸)感を論理として言語で表明すると、お金という記号には論と感情がまとわりつく。すると、行動経済学という分野ができ、人は感情でものを買う、などと断言しはじめる。

古典派経済学では、資源を無駄なく効率的に利用し分配する「パレート効率的」であることが良しとされた。ただ、それが公正かどうかというと怪しい。X軸だけの判断にY軸をいれてその交点を見つければよいわけではない。別の思想をとりいれなくてはならなくなった。それは倫理は道徳性である。これは感情でしかない。いまはその座標軸は、Z軸以降ほかもふくめいくつもあるはず。その複数軸は他者への配慮という感情の問題になる。

群れるといはそういうことだ。道徳という教科で教育すること以上に他者への配慮を必要とするのが、群れの役割である。配慮は自分が配慮されてはじめて、こころ、感情、で理解できる。知識ではない。むしろ知恵にちかい。その意味で群れは互恵性をもつ。

群れの機能をあまりにも軽視すると、表面で生きる仮面のような世界になる。人間の疎外になる。アイデンティティがない?っていう歌ありましやよね。

配慮とはケア。ケアする側とケアされる側が入れ代わり立ち代わりでてくるのが学校の群れである。学級経営という経営効率性の言語様式以上の意味をもつものが群れの中に存在する。ケアのない学校なら時間をかけて通学することに意味を見出さないと気づくと、そこには友達がいないことに気づく。

そうなると、最後はその群れから離れるかもしれないが、それは人生相当の時間経過のあとであってほしい。早期離脱はありうるが、それは学校がケアを喪しているからだ。

生まれて家や地域や学校という群れにはいり、そして群れから離れる。離れても自分には変わりないというときには、本気で離れる気がする。

  • 追記・経済学の始祖、アダム=スミスは、もともと倫理学の先生だった。

  • 今回は、はからずも、スミスの作った経済学をいまいちど、倫理学に引き戻す内容になった。

  • 無駄に群れていても、なんでうまく組織がまわるのか。もちろんうまくないのもふくめて。


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