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#58 学校は、勉強?学習?学び?        どれがいいですか?

もうすぐ夏休みです。その前に、期末試験が待っている。あああ・・。
期末試験を作る側にいた人間からすると、学力をきちんと測定することは困難です。いや、でした、というべきか。いちどだって満足して作成・採点したことはない気がします。第一、学力ってイミフでもある。

では、一体なんでみんな学校で勉強しているんだろう?

こたえは、学校で勉強することになっているから。そういう制度があるからです。その制度の枠組みがあって、そこでトラックを走る(専門用語でトラッキング)ようになっているのです。つまり構造化されているから。

だから、少なくとも、本当に自分が学びたいことができているかというと、なかなかそうとは言い切れない。勉強が楽しい、というとき、それは精確には学ぶことが楽しいということだとおもいます。

勉強は、語句のとおり、むりやりで、強制があり、達成目標がある。学習は、自分と対象があって何度も行きつ戻りつする。孔子のいう「学而時習之。不亦説乎」です。ドリルにちかいし練習にちかい。それができるようになればうれしい、だから、自己完結の世界。竹林の7聖人や高等遊民がその極地か?。

では学びは?
対象と自分が関係しているし、外に開かれている。自己完結ではなくて、社会との関係性を標榜している。社会というと大きいですが、友達でも、会社でも、近所の問題でも、自然でも、関わりがみえてくるし(構造化)、参加を要請(サルトルのアンガジュマン)が外界からなされる。

学びに向かう条件は、順序でいうと、勉強から学習を超えて、自分が何を求めているか、うすうす気づき、知っていることです。それはつまらない授業の勉強で気づけるし、ドリルを繰り返して気づくこともある。もっというと、大人のさりげない会話からきづくことも、秋の風景からもある。学校の機能とは、習得・友達・無駄な時間のやり過ごし方・トラッキング。その中での気づきなのだと思うのです。だから、すくなくとも、ここまでには、勉強して学習する時間はいる。そして、はたと気づく。

気づいて、周囲を観察することができるのは、制限があるからで、さらに一定の額縁の枠があるからです、それが授業。

観察とはメタ認知、つまり別の自分がいまの自分を見つめて、またマッピングしなおしすること。つまらないと感じる授業は、こうした時間と能力を提供している。もちろん、超つまらない授業はあるんだろうけど。

その授業している先生のおもいは顕在カリキュラム。こうしてほしい。でも、生徒がそれにそわないで別のことを潜在カリキュラムで学ぶ。これは教える方の問題なので仕方ない。でも一応、自分で何かを学んでいる可能性はある。

そう考えると、学校の勉強がつまらない、のであれば、そこから自覚的に何かに関心をもつ機会費用といえなくもない。トレードオフもできるかもしれない。それに気が付いて、活かせること学力だとおもうのです。だいたいにおいて気づいたときには、学校にはいないことが多い気がします。極論ですが、生産的活動に携わってはじめて、学ぶポテンシャルがためされるんだろう。それが学力の気がする。

学習とはいう言葉は、先の孔子の「学而時習之。不亦説乎」 からきてるんでしょうね。英語のLEARN、を明治時代におそらく漢語の教養から翻訳したのでしょう。いま、それを意訳すれば、おそらく、学ぶ、が、最適なようなきがします。

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