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未知なる「老い」との向き合い方

女性は、ある一定の年齢を超えると、


「年齢は単なる背番号です!」


なんて言い出しがちだけど、それに対して
「そうだそうだ!」ってどこかホッとする
のと同時に、背番号でも何でも、それを
どう解釈しようが自由なのに、なんとなく
違和感が拭いきれず、ぬるっとした感情の
自分がいます。


「年齢は単なる背番号」だと自分で主張
するのは、ちょっとした強がりというか、
自己防衛のように思えるのは私だけ?


年齢は背番号でも何でもなく、単なる年齢
でしかないのに、理屈をこねまわして
何かから逃げている。年齢を重ねることは
そんなにうしろめたいことなのでしょうか。


強がりといえば、唐代の詩人
白居易は、30歳ごろ、自身の老いに
ついてこんな風に嘆いてます。

行年未老髪先衰
随櫛落去何須惜
不落終須変作糸

“まだ老いてないのに、髪のほうが衰えてしまった。
櫛とともに抜け落ちようと、惜しむ必要があるだろうか。
抜け落ちずとも、結局細い白糸のようになってしまうのだから。”


「どうせ白髪になるんだから、髪の毛が
抜けたって別に惜しくない!」って、
いやいや30代でそんなカミングアウトする
なら、素直に「髪が抜けて惜しい!」って
言ったほうが、潔くてかっこいいのに。

私自身も、生え際に白髪を見つけたとき、
自分はいよいよ死が近づいていることを
覚悟したし、眼精疲労で駆け込んだ眼科で


「老眼入ってますね。。」


と思いもよらない宣告されたとき、
ついにそっちの世界に足を踏み入れたかと
ショックでした。膝もあまりよくない
ので階段の下りが嫌。そろそろ
『グルコサミン』と『コンドロイチン』の
CMが気になる。


とはいえ、人生まだ半分以上残っていて、
こんなのジャブ程度だと覚悟しなければ
いけない。


これから想像を超えた「老い」に直面し、
向き合うにあたり、どんな心持ちでいたら
よいのか、それすら未知の領域だけど、
数年前に何かの雑誌で読んだ上皇后陛下の
お言葉がとても印象的でした。


「以前のようにピアノを弾けなくなったり、
昨日までできていたことが今日できなくなる
というのは怖いことでもあるけれど、
今までできていたことは授かっていたもの、
それができなくなったことは(神に)お返し
したものとして受け止めています」

というような内容だったのですが、
「お返しする」というのは、なんと
謙虚でしなやかな発想だろうと胸が
震えました。


できなくなったことや、失ったものに
執着して嘆くのでなく、今できることに
感謝して、ありのままの自分を受け入れる
ことにフォーカスすることで、老いの
苦しみに無駄に振り回されることなく、
安らかでいられるのかもしれません。


「お借りしているこの体」をちゃんと
丁寧に扱わねばと思うし、頂いている
命を精いっぱい活かして楽しまねばと
思うのです。

全ての物事には表と裏、プラスとマイナス、
善と悪、光と闇、2つの局面が存在するわけで、
どんな状況でも、人生は


「いかに明るい方、心が穏やかになる方に
向かう生き方ができるか修行」


のように思えてならないのですが、
どちらを向いて生きるかで、住む世界が
変わってくる気がします。


あと数か月で43歳になる私。
人生100年時代、まだ1つ年を重ねること
なんて全然惜しくない。いや、そこは
「惜しい!」って素直に言うとこでしょ!w


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