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母と、わたしと。

タバコを咥えながら、部屋から出て来た女は、下着のようなタンクトップにショートパンツをはいていた。ブラの片方のストラップが肩に落ちそうだ。長い髪はパーマがかかっていて、それを後ろでポニーテールにしていた。後れ毛がバサバサと顔にかかっていて、いかにもそういう女の人というのを体現していた。この手の女が好きな男っているんだなって、不思議だった。言葉も乱暴だったけど、胸の谷間がはっきりとしていて、それでいてスタイルはよくて、薄くて白い肌をしていた。美人というより愛らしい表情の人だった。母よりも少し若いぐらいだったのかもしれない。

私は、母に連れられて、父の愛人のマンションに来ていた。彼女の部屋の前の共用廊下に私たち3人は向かい合った。駅から炎天下を歩いてきたので、汗が身体を流れているのが分かった。時々、5階の廊下を風が吹き抜けて、私の体温を下げてくれた。廊下の手すりの向こうには、川が流れているのが見えた。私は、ランドセルを背負ったまま、Tシャツの裾を両手で握りしめて、母とその女を見つめていた。

「私は、別にかまわないけど、こういうところに、自分の子どもを連れてくるって、どういう神経なの?普通の母親ならさぁ、子どもにこういうの、見せたくないんじゃないの?」

その女は、母と私をジロジロと観察しながら吐き捨てるように言った。母は、きちんとした服装(だったと思う。)で、髪も短くカットし、白髪も上品な色で染められていた。父が家を出てから、髪の毛もボサボサで、家では泣いたり騒いだりしていた母だったけれど、その日は、以前のように清潔で、きれいな姿をしていた。どこか、破綻したような裂け目も見えたけど、それは私が彼女の娘だから分かることで、多くの他人には、そのほころびは見えなかったはずだ。

「とにかく、困るんです。主人を家に帰してください。うちには子どもだって二人もいるし、生活費も入れてもらわないと。私は仕事を持っているけど、家のローンまでは私一人では払えませんから。それから、はっきり言っておきますが、私、主人と離婚するつもり、ないですから。」

迷惑そうに顔をしかめていたその人は、始めて、母を見て笑顔を作った。

「いいんじゃないの。離婚しなくて。私もあなたのご主人と結婚しようなんて思っていないから。彼は、檻に入れられているわけでも、鎖に繋がれているわけでもないんだから。ここから仕事に行って、ここに帰ってくる。そっちの家にもどりたいなら戻ればいい、それだけの話しなんじゃない?」

「主人は、今、部屋にいるんですか? いないんですか?」

「ご自分の亭主が仕事で忙しいの知ってるんでしょ。こんな平日の午後に部屋にいる訳ないじゃない。」

彼女はタバコの煙を吐きながら、顔を斜めに向けてふっと笑った。彼女の指摘に、私は思わず頷いた。子供心にも平日の午後4時とか5時くらいに会社勤めの男が部屋にいるわけないって分かるから。

その日は、たぶん水曜日だった。いつもより早く授業が終わって、小学校の校門を出ると、母が私を待っていた。私たちは無言で、歩き出した。電車を乗りついで、女のマンションまでやって来た。母は区役所に勤めていたから、きっと職場を早退したのだろう。仕事を早退し、幼い子どもを、夫の愛人の家に連れて行ったくらいだから、母も、そうとうおかしくなっていたに違いない。

女の言葉に母はサッと顔色を変えた。

「いいですか。あなたさえいなかったら、うちは、平和だったんです。あなたのせいなのよ。あなたが、主人をたぶらかしたから。お金ですか? お金目当てだったんですか?どうしてうちの主人だったんですか。男をくわえこむなら別の人にしてください。うちは、経済的にも困っているんです。子ども二人抱えて! 来週までに、この子の夏期合宿のお金を塾に払わなくてはいけないんだから。来年は中学受験もあるし、父親がいなかったら、私立の受験では不利なんです。」

その時は子どもで、言葉の意味もよく分からなかったけれど、本能的に母の言葉に嫌悪感を持った。母は、父のことをもう愛してはいなかったのだろうか。

『お金、お金って。』

経済的に困窮するから夫を家に返して欲しいだなんて、まったく屈辱的だ。それは甘えることの下手な母の、愛情の表し方だったのか。どちらにしても、母が、子どもの私を利用してでも、父を取り戻したかったのは事実だっだ。

私は、父親に見放されたかわいそうな娘の役を演じることを期待されていたのかもしれない。

女は、私のことを哀れむように眺め、それから、ため息をついて視線を母にもどした。

「わかったから、子どもがいるところで、そんな話するもんじゃないよ。今夜、彼が、部屋に来たら、そっちの家に戻るように話すから。とりあえず、お嬢さんつれて、帰ったら?」

母は憮然とした表情で、その女の人を見つめていた。その女の人は視線を再び私に向けた。

「アズサちゃんだろ。あんたのことはお父さんから聞いてるよ。すごく頭が良くてピアノを弾くんだって? あんたの弟は、野球が上手いらしいね。 あんたのお父さん、いつもいつも、子どもの自慢話ばっかりしてるんだよ。」

彼女は、無防備な笑顔を私に向けた。目尻に深く笑い皺が刻まれた。幼い私には、最初の印象と違って、この人は、優しい人なのかもしれないと感じられた。お父さんは、わたしと弟を捨てようとしてるんじゃない。お父さんは、わたしと弟のことを愛しているんだよ、と彼女から教えられたような気がした。

「あなたには関係ないことだから、娘のことも、息子のことも。この子は、私の子どもなのよ。ほっといてちょうだい。なれなれしく話かけないで。」

母は、大声で叫ぶと、突然、彼女の顔を平手で叩いた。咄嗟のことで、彼女も私もびっくりして、茫然として、母の顔を見た。強い力で打たれた女の人は、一瞬目を見開いた後、くるりと背を向けて無言で部屋の中に戻っていった。私は自分の頬を打たれたみたいに、顔を両手で押さえた。涙がポロポロとこぼれ落ちた。心の中から、今まで感じることを拒否していた様々な感情、悲しいとか、寂しいとか、愛されたいとか、抱きしめられたいとか、そんなものがごちゃ混ぜとなって、涙と一緒に溢れ出てきたみたいだった。

彼女が指から落としたのか、タバコから細く煙りが上がっていた。

その後、母と私がどうやって、家にもどったか、よく覚えていない。

              *  *  *

結局、父と母は離婚しなかった。父は、56歳の春、脳血栓で、あっという間に、逝ってしまった。死ぬにはまだまた若い年齢だ。いつか年を取った父から、あの女の人の話を聞きたいと思っていたけれど、その願いは叶わなかった。

母は、父が亡くなった時、病院でも、葬儀の間も、ずっと泣き続けていた。

今でもしみじみと父の遺影に話かけている母が、何だか嘘くさくて。そんな母を見たくないから、私は、家に、寄り付かない。




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