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【質問回答】親のせいで自立ができない、人生がつまらない!

春がきた 春がきた どこにきた
山にきた 里にきた 野にもきた


春というのを時期的なものとして考えれば、どこかには来ているが、どこかにはまだ来ていないということはありえないものですよね。山はもう3月だが、里はまだ2月だ、ということがないように。でもこの歌ではもちろん、春らしい開花や芽吹きや雪解けのことを”春”と言っているのでしょう。だからこれは、季節の移り変わりによる自然の変化について歌ったものなのですね。

不思議なのは、まずはじめに野にきて、それから里にきて、最後に山にくるであろう春を、その反対の順番で歌うところなのです。山に来た、里に来た、野にも来た。これを勝手に解釈してみると、山に春の訪れがあるころには、里や野もとうに春らしい景色となっていることだろう、と歌っているのじゃないかしら。となると、これは山にいる人々の思いを歌ったもののような気がいたします。

この歌詞を、それをもとに意訳してみると、

春がきた 春がきた 春らしい変化がやってきた
山で花が咲いたのならばもう 里も野も春の盛りなのだろう


という感じになるでしょうか。

これをさらに現代のポップソング風にアレンジしてみると

ねぇ春がきたよ 君はどこにいるの そこに春は届いたのかな
ボクはまだこの田舎にいて 眺めのいい山から 街の方を見てる
今日桜が咲いたよ 君のいる場所ではきっともう 散りはじめてるんだろな

みたいな感じでしょうか。なんかちょっと切ない恋の歌になっ…いやなにをしているのだろう自分は。童謡を現代風にしてなにがしたいのだろう。

春は露出狂が増えると言ったものですが、自分もこうして知らぬ間に浮ついているのかもしれません。というわけで、今日も質問回答です。

今のあなたの具体的な望みとは、なんでしょうか。これをちょっと考えてみてください。たとえば、親御さんがきちんと家の掃除をしてくれて、引きこもりのあなたを無償で食べさせてくれて、あなたに仕事せず家事も手伝わずにいさせてくれて、あなたが生きている間、いつまでも家に置いてくれることでしょうか。そして、過去にお祖父様の介護をしていた時期の時期のあなたの不自由に対して謝って、その時期のあらゆる損失を取り戻し、愛し、なだめ、あなたの必要なものをすべて与えてくれることでしょうか。

それが欲しかった。子どものうちから、そうして欲しかった。それなのに得られなかった。そうではないでしょうか。それは言葉にならないほど、お辛かったことでしょう。けれども、あなたも頭ではよくよくわかっているように、それはこの先、親御さんがこの世を去るまで待っていたって、決して得られるものではありません。

これを、現実的には諦めるしかないのに、諦めきれずにいるのですね。

この世にもしもタイムマシンがあったのなら、そして私がもしもあなたの家の近所の怖いおっちゃんだったなら、あるいはあなたの親御さんの親類だったのなら、竹刀を担いでやってきて、ドスの利いた声で「おいお前なあ!目に余るぞ!ちょっとは子どものためにも家の掃除くらいしてやったらどうなんだい!」とあなたの親御さんに迫ってあげられたかもしれません。

けれども、やってあげられないのです。私も誰かに似たようなことをして欲しいと思えることがあります。いっぱいあります。誰かが自分をいじめていた子に爆竹を投げてくれたらいいのに!と思います。親にやり方を教えてほしい。でもそれも、どうしようもないことなのですね。タイムマシンはないし、どこの親もそうであるように、私の親も未熟なまま親になったのだから。

多くの人が、親がみな完璧で、育つ間に心にブロックができなかったから自立できた、というわけでもないんですよ。私は最初に家を出たころ、お金もなく、職もなく、社会経験も皆無で、なにしろ社会不適合で、自立が恐ろしすぎていつも誰かに頼っていなくては生活ができませんでした。私はそれでも飛び出してしまいましたが、飛び出さないで耐えているあなたとの差のひとつは、私は親が期待に応えてくれることを諦めたことかもしれません。

家にいるのなら、あなたはそれなりにメリットを得ているのですよね。家賃も払わなくていいし、仕事をせずに家に引きこもっていることができます。10室もあるような大きな家にいられます。唯一提供しているのが、お掃除の労働力ですね。この楽な環境は、自力で得るのはかなり大変なことだと思います。これは、親御さんが健在である間は、続けることができます。

でも、この暮らしにはいつかは終りが来るのです。

親御さんは不死身ではないので、どこかで今の環境はなくなってしまうのです。そのことを、その状況が来て突然理解するか、今から少しずつ対策するか、そのどちらかだと考えてみてはいかがでしょうか。大丈夫ですよ、ゆっくり進めばいいのです。

気持ち良いこと好きなこと楽しいことが見つからないのであれば、まずは少しずつ、自分が今持っている環境の恩恵を利用しながら、快適さを増すように、そして嫌なことからは距離を取るようにしていってみてください。

親御さんのことは一旦置いておいて、あなた自身にとって、なにがどうなれば今より少し快適なのかを考えてみて。それを、親御さんがくれるものではなく、自分でできることの範疇で考えるのです。

これを考えようとすると、親がこうなってくれさえすれば自分は快適だ、ということがきっとたくさん思い浮かぶことでしょう。もっと掃除をしてくれたら。自分の心のブロックを外してくれたら。過去を書き換えてくれたら。でも、それは叶わぬことなのです。それをあなたも悟っていることでしょう。あとは、それが本当は自分でもわかりきっているということを、ちょっとずつ認めていきましょう。

もしかしたら、本当はあなたにとって、家が綺麗かどうかということは何を差し置いてでも重要なことではないのかもしれません。それは親に対する怒りが、目に見える形で向かいやすいだけのことなのかもしれません。

私たちは、私も含めほとんどの人が、親からの完璧な愛を受け取れずに育ちます。その寂しさを埋められずに、蓋をしたり、怒りに変えたり、自分が悪いのだと思って劣等感として抱えたり、親以外の人に愛を求めたり、親から巣立たずにいることなどで、なんとかバランスを取って生きているんですよね。ここはみ~んなみんな、同じです。それぞれに、一旦は必要な方法でバランスをとるのです。それもみな、完璧に。あなたもそうなのです。

だから、あなたはどこもおかしくなどないし、どうしようもない人間などではありませんよ。とてもとても、普通で健全な人なのです。悔しい思いを、なんとかしながら生きてきたのですから。本当のことを言えば、こんなに大変な状況に立ち向かえる人だからこそ、この状態にあるのです。人は、超えられない状況には置かれないのです。今の状況で、憤死しそうだと表現するほどの怒りを感じても耐えられるのは、あなたの強さです。計り知れない強さ。よくぞそれを使うことができましたね。そして、その強さは、ここから自分を快適にしていく力に変えることができますよ。

親御さんのことは親御さんのことで、あなたのことはあなたのこと。いくら親子でも、私たちは別の個体、別の人です。それぞれに、自分のことは自分でやっていけばいいのです。

親御さんはあなたがそばで掃除をしてくれなくても自分で自分を快適にできます。嘘みたいでしょう?でもできるのですよ。それに、できてもできなくても、彼らの好きなようにさせてあげればよいのです。彼らは良くならないという選択肢すら持っている、自由な存在です。

同じように、あなたは、親御さんのそばにいてあげなくてはならない存在ではありません。そして、あなたはあなたの好きなようにしていけばいいのです。ちょっとずつ、ちょっとずつ。

あなたは、どうすることでちょっと快適になるでしょうか。
小さなことでいいので、探ってみてください。
あくまでも、今の自分ができること、で探すのです。

ケーキを食べることでしょうか。漫画を見ることでしょうか。ここにもう一度質問を送ることでしょうか。掃除を辞めることでしょうか。思いっきり伸びをすることでしょうか、思いっきり泣くことでしょうか。
それを探してやってみる。これを、今のあなたのお仕事だと思ってやってみてください。応援しています。あなたに幸、ありますよー!

それではまたね。

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)