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579/1096【往復書簡】昼寝でホームランを打て!

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で579日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

579日目、今日は堀内恭隆さんの『ベストパートナーと宇宙一カンタンにつながる方法』出版記念全国講演会のゲスト出演をさせていただいて、ものすごく楽しかった!

このウキウキテンションのまま毎日投稿を書くのが昨日から楽しみだったから、このままいってみよう!書くぞ書くぞー!

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上の圭吾さんの記事へのお返事です。

おはようございます!!禁断の踊りを試してくださってありがとうございます!!なぜか猛烈に嬉しかったです!!身体の赴くまま勝手に動いてみると、自分の狂った部分が出てきて大変面白いですね!動物にかえる瞬間や、幼児や小児の自分にかえる瞬間などが面白く、圭吾さんのおっしゃるように自意識が溶け出していろんなものがどうでも良くなります!!

前に壇珠さんとお会いしたとき「ガッツポーズに命を賭ける」という話をしたことが蘇りました!!我々、毎日のようにブログ記事などを書いていますが、良い記事を書けたかどうかの基準は「どれだけ威勢良く投稿ボタンを押せるか」にかかっているという、あの話です!!書いて書いて書いて書いて、書き終えた時に「どりゃーーーー」と自分の全存在をかけて投稿ボタンをクリックする。クリックをする時、どれだけ全身全霊を込められるか。どれだけ「見晒せ!」とか「うおりゃー!」とか「くらいやがれ!」と思える記事を書けたか。これの勝負を(自分自身と)しているような気がします!!これはホームランを狙う気持ちと似ています!!

わたしもその会話を覚えておりますとも!!わたしも今も同じように、毎日のブログ執筆が、自分自身との勝負になっております。余裕をぶっこいて書いているとつまらないので、自分がヒヤヒヤするようなことを書いて「いけえー!!投稿じゃー!!」という気持ちで公開ボタンを押すことで自己満足を得ております。この自己満足がわたくしめにとってとても大切で、ブログでなくてもいいのですが、自分がこんなことをしてみたい!というものに応えることがなくなると、なんだか毎日が虚しくなってしまうんです。

わたしは、とりあえずは自分の要望にさえ答えていれば虚しくならないのって非常に便利だと思うんです。幸福のソロキャンパーです。幸福感のミニマリストです。あの人もこの人も、家族も友だちも、ご近所さんも社会も幸せに・・とやるのは無理なので、まずは自分ひとりの小さな幸福で小さな炎を灯して、そこに自分の喜びを焚べているうちに、家族や友だちや社会も、そのキャンプの炎に温められるのだと思います。

人は自分ひとりでピッチャーもバッターもやれるのだなと思います。自分で、自分に打てそうにない球を投げて、自分で打つというひとり野球です。自分で自分に「フッ・・果たして貴様にこの球が受けられるかな・・・?(ドヤ)」と球を投げ、それを打って「(ホームランでバットを捨てながら)ふはははは、見たか!!貴様の負けだ!!(ドヤ)」、という感じです!!このひとり遊びに夢中でいることは、自分の中の女性性(無茶振りをするピッチャーと)男性性(それに応えるバッター)を使っている感じでもあり、その自分の中での熱狂と循環は、周囲の人にも「あたいも自分の球を投げてみたい!自分の球を打ってみたい!」という感覚に火をつけて巻き込んでいく感じがしています。結果として、周囲の人たちもひとり野球をしていて、なぜか全体はうまいことチームになっているという面白い現象になるのだと思います。

わたしはこれまで当然単身にてこのひとり野球をしていましたが、圭吾さんとの往復書簡を始めたことで、ブログ上で圭吾さんというキャッチャーが現れてくれたという感じがしています。お前が打てなくても俺がその球を取ってやる!だから遠慮なく投げてこい!みたいな感じがします。あちきはその御蔭で、これまでになかった魔球を全力で投げることができ、それを打つために三振覚悟でフルスイングすることができています。これもまた、男性性と女性性の循環だと感じています。わたくしめは勝手に圭吾さんに甘えている分際なのですが、さらに勝手に圭吾さんのことを、図々しくもある種のパートナーだと思ってしまっています!!なかなかどうして幸せです!!

小生、生きる意味に悩む方々には「ガッツポーズをするためですよ」と言いたい。人生は意味じゃない。喜びだ。ガッツポーズが飛び出した数だ。と。

はい!!わたくしめもまったく同じように思います!「うおっしゃー!!」というときに人間が放つ気というものは、その人の世界を塗り替える禁断の力があると思います。圭吾さんは、ガッツポーズをしているうちに、なぜか人生がどんどん面白いほうに進んでしまうという感覚がありませんか?!

わたしは、意味のない、社会的には褒められそうにない、役に立たない、特にどこからも評価されないように思えることだとしても、自分がガッツポーズをしたいがためだけにそれに夢中になるうちに、気がつけばそのことが完全に想定外のプロセスによって誰かに喜んでもらえたり、自分の生活を支えてくれたり、やり甲斐や仕事や収入になっていたり、ということばかりが起こります。そんな経験をするうちにわたしは「ガッツポーズの快感は、その人の現実の物理世界に感染するもの」だと感じるようになりました。

人生の意味なんてどうでもいいから、使命なんてどうでもいいから、運命なんてどうでもいいから、他者貢献も世界平和も自己実現もどうでもいいから、まずは一旦ガッツポーズに突き進んでみる。そうするとなぜか、他者に貢献していたり世界平和が自然と心に現れたり、これが自己実現ってものなのかなと思うようなやり甲斐に出会えたりするものと思います!!自分がお腹が空いていたら目の前のパンは食べ物に見えますが、自分がお腹いっぱいのとき、そのパンは周囲へのプレゼントに見えるものだと思います。(っしゃーキマったー!!

私も、時折「坂爪さんを見ていると、自分の代わりに生きてもらっているみたいで楽しいです」などと言っていただけることがあります。これは非常に嬉しいお言葉であります。誰もがその人しか立てないポイントから世界を眺めてくれているのだから、誰かになろうとするよりも、めっちゃ自分を生きてそこから見える風景をシェアした方が、豊かさは倍増する気がします。

この、『自分の代わりに生きてもらっているみたいで楽しい』というのが、「俺は俺を生き、お前もお前を生きている!俺には絶対にやれないお前という人をやってくれて、ありがとな!!」的な感覚から発されているときには、めちゃくちゃ素敵だなと感じます!が、『自分は坂爪さんのように好きなように生きたりできないので、それを代わりにやってくれているのが嬉しいです、なぜなら自分にはできないので・・』的な諦めから発されているときは、うぉい!!そこは誰かにやってもらうことでねーんでねーか!!と思ってしまいます。

そして、われわれが自分を生きているときには、きっと他者に対して『あの人が自分の代わりに生きてくれて楽しい』となど、微塵にも思わない気がしました。もっとこう、君は君をやってますよね!お疲れっすー!!という感覚だと思いました。だからこう、なんといいますか、『俺ァお前には生きられない人生を生きてるぜ!ありがたいだろ?わかるぜ兄弟、俺もそのこと考えるとお前にありがたいからな!』くらいの勢いというか図々しさを持っちゃってもいいんでねえか!!と思いました。うるさいですよね、自分はうるさいやつです!!自分はひとり野球をするうちに自分への声援まで自分でやっていたからか、このようにおせっかいでうるさいやつになりました・・

しかし!!自分の人生のベンチを温めているものに、他者の試合の応援をしている暇がありましょうか。自分を応援できないで誰かを応援できましょうか。自分にかっとばせー!!と思えなくて、誰かがかっとばしたことを喜べましょうか。かっとばすのは、たとえ昼寝でも、遊ぶことでも、なんでもいいんです。昼寝でかっ飛ばすんです。150m級の昼寝をするんです。それを、自分の代わりに誰かにやってもらっている場合じゃないと思うんです。自分で試合に出て自分を応援しているものが、「他者が自分の代わりに試合に出てくれていて嬉しい」などと思うことがありましょうか。書いているとなんだか泣けてきます。「自分の代わりになるものなどいない!!」と、「俺のマウンドは俺のものだ!!」と、「俺の球を打つのは俺だ!!」という暑苦しさをもっていてもいいのではないでしょうか!!と、やはりここは野球なだけあって、真夏の暑苦しさを持って訴えてみたい自分です。自分がしたいのが昼寝であれば、昼寝で堂々と甲子園に出てほしいです!!

私は昔から謎に腹筋が割れているのですが、トレーニングなんてなんにもしていません。では、なぜ腹筋が割れているのか。これはおそらく私が常に丹田に力を込めているからだと思います。私は魂の潔癖症なので、変なひとといると「お前のエネルギーを俺に取り入れてたまるか」と無意識に身構えます。すると丹田に力が入ります。結果、腹筋が割れます。私は、私の潔癖症によって鍛えられていたのです。これはきっと壇珠さんにわかってもらえるかもしれないという淡い期待を抱きながら書くのですが、文章を書くときも相当なエネルギー量を消費している気がしませんか!?身体を使うことと同じくらい、頭を使うことでカロリーを消費している気がするのです!!だから、どれだけ食べても太らないと言いますか、摂取カロリー以上の運動で(妄想や空想などを通じて)消費している気がします。科学的には根拠のない話かもしれませんが、我々が科学の先を言っているだけで、多分これは真実です。

わたしも謎に腹筋が強いです・・・・まったくトレーニングをしないのに、腹筋を100回やってもまだできます・・・圭吾さんと同じ理由からなのでしょうか?!丹田が無意識のうちに鍛えられているのでしょうか!わたしも丹田があるから大丈夫という謎体感覚を持っており、本が詰まった本棚を動かしたりできるのですが、腕力脚力などの筋肉を使っている覚えはなく、丹田をテコにして骨で動かしている感覚があります。それから、ブログを書くとえらいエネルギーを消費しています。ひとり野球一試合分のエネルギーなのだと思います。

ブログを書いていると、さまざまな葛藤にぶち当たります。こんな事書いたらやばいかな、こんな事書いたら嫌われるかなと思いながらも、自分というピッチャーがその球を投げたがって血走った目でニギニギしているので、もうそれに負けて投げさせます。そして文章というバットを振り回してホームランを狙います。いい文章を書こうとしたり、誰かに認めてもらおうとするフォームでは決して打つことのできない、自分という観客のいるバックスタンドにぶち込む、自分というたったひとりの観客ののためのホームランです。そうじゃないと、あの「うぉっしゃあー!」のガッツポーズが出ないからです。ガッツポーズさえ出ればその試合は勝ちです。そうですよね!!

そのときに、たしかに丹田を使っているんです。「嫌われたっていいさ」と思うときや、「この最悪の想像、起こったっていいさ」と覚悟するとき、腹がふにゃふにゃでは超えられません。一旦覚悟できさえすればそのあとは緩んでリラックスすることができますが、覚悟の瞬間だけは丹田にクッとテコの支点を見つけて、身体とともに「いったれえ!」と決める瞬間があります。それがきっと我らの腹筋を強めていたのですね。われわれはこれで科学に勝つことでありましょう・・『丹田腹筋鍛錬論』でいつか一緒にノーベル気合賞を取りましょう!!

巷では「食べるものがあなたを作る(You are what you eat)」みたいなことが言われていますが、ちょっと違う気がします。正確には「考えることがあなたを作る(You are what you think)」だと思います。一般的に体によいとされているものを信じて健康食を食べることは、私から見ると不健康です。なぜなら「ねばならない」にがんじがらめになっているからです。それよりも、食べているとき(生きているとき)の「楽しい」という感覚が、元気の秘訣だと思います。極論、もう、楽しければなんだっていいのです!!

わたしもこの感覚こそ真髄だと思います!!たとえどんなに身体にいい食べ物でも「これを食べると健康になる」というふうに、食べる行為においての主役を食べ物に明け渡してしまった瞬間にそれは無効になる気がします。

わたしは以前、めちゃくちゃストイックな自然派に傾倒したことがありますが、自然食や無添加、無農薬、ヨガやアーユルヴェーダやシュタイナー農法やリビングフードや漢方やローフードやらやらを可能なかぎり学んで、そこから厳しい自然派生活を実践していました。それはそれは楽しかったのです。しかし、途中からどんどん嫌な気持ちで過ごす時間が増えました。それをしているかぎり、世界は敵だらけになっていくのです。

ほとんどの人工物が害悪に見えてきて、途中から生活が楽しくなくなってしまいました。そのことでしばらく葛藤してから、ある日気持ちがぐるりと切り替わってマックを食べたときの解放感といったらもう、幽閉されていたところから何年かぶりに外に出たみたいな喜びでした。どんだけハードモードな自粛だったのでしょうか。以来、食べ物を食べられることが楽しくなって、今に至ります。食べる行為は喜びです。わたしたちは健康のために食べるのではなくて、自分に快感を与えるために食べるのだと思います!!

俺を見ろということが「人生はどうにかなる」ということとイコールになるような、俺と見ろということが「お前は絶対に大丈夫だ」ということとイコールになるような、そういう存在でありたいと思っております。

あのう~~・・なんでそんなにかっこいいんですか!!くそう!!ちくしょう!!俺は悔しい!!しかし、その父のような力強い役は男の圭吾さんに譲ります。なぜなら、わたしはここで不思議と突如として女っぽい感覚になり「人生はどうにかしてもらえる」「わたしを絶対に大丈夫にしてくれる」を採用していきたいと感じたからです。誰が大丈夫にしてくれるの?と聞かれたら「自分とかメンズとか宇宙とか」みたいなあやふやな答えになってしまうのですが、そんなゆるいものにゆだねてしまっている自分がいます。自分はその点でとてつもなくゆるゆるです。「人生でほんとうに頼れるのは自力だと思いますか他力だと思いますか」と聞かれたときに「長州力だと思います」というくらい気楽でゆるくてアホな手放し運転をして、それでも大丈夫、むしろうまくいく、そういう存在であればいいような気がしています。

ところで、最近のわれわれの往復書簡は真面目になってきている気がするのですが、わたしと圭吾さんはある意味でえらく真面目だと思いませんか?!人生に真面目です。地球に遊びに来たから目的通りまっすぐに遊んでいるし、本気でいようとするし、なんだか魂の言うことを四六時中真面目に聴いて生きようとしています。社会的に真面目に生きていて人生がつまらないという人は、逆に自分に対して不真面目なのだと思うんです。圭吾さんは圭吾さんを、わたしは壇珠さんを、それぞれ親よりも子よりも兄弟よりもパートナーよりも、この世の誰よりも超真面目に愛して生きていると思います。

圭吾さんは、自分を不真面目だなと思うことってありますか?わたしはそういえば以前は「自分はなんて不真面目な人間なんだ」と思っていたのですが、近年すっかり思わなくなっていることに気が付きました。以前は、なにかをサボって好きなことばかりやってしまったりするだけで「ダメだ、不真面目だ」と思っていたのですが、一体何に対して不真面目だというのでしょう。自分に対してめっちゃ真面目じゃないかよ!と思うんです。というわけで、たしかにいろいろな意味で汚物のわれわれですが、なんとそんなわれわれは実はめちゃくちゃ真面目なんじゃないか説を出してみました。

もう、自分はこうなってきちゃったら、自分へのダメ出しのやりかたがわからなくなってしまいました。あれこれダメな点は数え切れないほどありますが、ダメな子ほど可愛いみたいな感じがします。ちょうど「走らせれば速くて、狩りをさせれば爪も牙も強くて、毛並みも筋肉も美しい、元気で完璧に健康な猛獣」ではなく「怪我をしてヨタヨタしている汚い捨て猫」を見たような感じに似ていて、ダメ出しどころかむしろ抱きしめたくなります。もちろんその捨て猫は多くの点でその猛獣に負けていますが、そんなことはまったくこちらの愛に影響しない、という感じです。

だから、そんな自分にダメ出しをしてイジメる感覚がわからなくなってしまったのです。狩りはできずとも、ちょっとでも休んでほしいし、ちょっとでも元気になってほしいし、なんの役に立たなくても毛糸玉にじゃれて楽しんでほしいと思ってしまいます。無理に獲物をとってエサ代を浮かそうとなど、しないでおくれと思います。

自分を愛せないという人は、自分を愛するために能力を上げる必要も期待に応える必要もないのだと思います。ただそのままの傷ついた自分に、ちょっとでも仕事や遊びや人間関係やひとりでいることや自然環境や都会の便利さなどなどなど、この地球にあるリソースをなんでも制限なく使って遊んで楽しんで癒やされてほしいという気になればいいような気がします。

すると「喜びのガッツポーズをする自分がなにより嬉しい」という自分へのラブ(叶恭子風)は、勝手に自然に湧いてくるのだと思います。ハッ・・ついつい真面目に!!とにかくごちゃごちゃ考えないで、「心からのガッツポーズを宇宙に放つほど想定外の幸運に見舞われちゃう説」を信じてみてほしすぎて、そのチラシを刷って叶恭子さまのコスプレをして「お死になさい」と言いながらキスマークを付けて駅で配りたいくらいです。

戦時中に比べたら、コロナ騒動の自粛生活なんて天国と同じ!!能動的に自分に赤紙を出すことによって、生死の境をさまよってきたいと思います!!

ほんとうに、戦時中を思うと今の御時世に文句が言えません。その時代の人々に「マジでありがとう」が湧いてもきます。この時代に生きるわれわれは、コロナによって一蓮托生感がグッと増したものと思っています。

圭吾さんは、未来のことを思うときがありますか。わたしは、今の時代のことを見ている未来の人の感覚になってみることがあります。未来の人になってみると、今の時代の人々にとてつもない痛々しさを感じます。と同時に、まだまだテレポーテーションができなくて、まだまだアナログで、まだまだ分離感に苦しんでいて、だからこそ最高にドラマチックで夢のように面白い三次元謳歌度の高い時代だと思えます。その次代にいる自分のことをみると、うわー死ぬほどごめんね、うわーしかし爆裂に面白かったね、もう三次元経験が最高の盛り上がりのひとつを見せていたころだね、と思うんです。

今の時代に生きたことについて、未来の世界で、あるいは死んだあとにでも、一緒にどこかで語り合えたら嬉しいです。そう考えると、いつのときか「元圭吾さん」と語り合うであろう今世の物語を、今オンタイムで紡いでいることに不思議を感じます。今、このとき、このオンタイムのときに、「あの時代、面白かったね!」と言っている未来の自分をも生みだしているんですねー!

そしてそのときの自分はきっと、今の自分にこう言うだろうと思います。「好きに生きて好きに死ね!」・・・ぬんおおおおおおお~~自分、未来の自分に喝入れられました!!自分も赤紙出して頭頂部から未来に突っ込んでいきたいと思います!!喝&押忍、本日もありがとうございました!!

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