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569/1096 世界は、あなたがいてこそ

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で569日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

569日目、おおーなんだか600日目が近く思える。今日はまだまだ3年近くあると思っていたところから、こんなところまで急にワープしてきたような感じがする。こんな未来があるのか~~という感じ!

まだまだ先は長いわ~と思っていたのがつい先日のようだ。いつの間に時間が経ったのだろう。これもパラレルワールドの移動と言える!わたしは数百日前から移動してきた人なのだ。面白いのが、移動前の自分にフォーカスすると未来に来てしまった過去の人であり、今の自分にフォーカスすると過去から来てしまった未来の人という感じがすること。もうそれって、今にぜんぶがあるとしか言いようがないじゃないか!わたしはたった今過去の人であり未来の人であり、それを感じている今の人だ。

今日はそんな感覚によって「なんでもよし!」という気になったので、気楽な気持ちで書こう!

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今わたしは、自分の母と夫と娘とともに、イタリア共和国のヴェネツィアというところに住んでいる。

ヴェネツィアというのは、あのヴェネツィア国際映画祭の開かれるヴェネツィア、水の都ヴェネツィアである。ヴェネツィア在住の日本人はフィレンツェなどにくらべ圧倒的に少なく、周囲に日本人を見かけることはほとんどない。この、日本人の目をまったく気にしない生活に突入して、かれこれ9年以上が経つ。足掛け10年だ。

イタリアに来たばかりのころ、イタリア人達を見てまず思ったこと、それは「めちゃめちゃ美しいやんけ」だった。もちろんそれはわたしの感性によるもので、そうは思わない人もいるだろう。けれどもわたしにとっては激しい衝撃であった。彫刻が歩いているのである。彫刻の肌が有機物でできているのである。わたしはこういう形状をした夫以外の生物を間近で見たことはなかったため、本当にたくさんいるんだなあ!と思い、木の棒でツンツンしてみたいと思ったりした。

子供のころ、はじめて見た奇妙なものを、とりあえず木の棒でつついてみたのと同じ反応だ。今思えば、わたしは海外のことをほとんど知らない日本人だった。それほどに世間知らずだったのである。

同時に、わたしは自分が外国人なのだということに意識を向けるようになった。わたしはこの大陸では外来種だ。わたしはあちこちで、あっマレーシアの人だ!あっ中国人だ!あっアジアとのハーフだ!などと言われた。中国人からは、ロシアと中国のハーフですねと言われるのだ。いえ、日本人です。と言っても、嘘言っちゃいけねえよ~~~と言われる。あなたがわかっていないだけで、あなたの血は純粋な日本人などではないよ。と諭される。

こうして、おかしなことに、こちらでは誰もわたしを日本人だと言わないのだ。わたしは、欧州における日本人の容姿や特徴についての認知の低さに愕然とした。わたしはヴェネツィアに暮らしていて、「あっ日本人だ!」と言われたことが、この9年でただの一度もないのである。多くの人が、リアルな日本人を知らない。これほど世界中の人が訪れる観光地でも、である。

こうした経験を積むうちに、気づけばわたしには「人種ってなんぞや」という疑問が生まれ、やがて崩れていった。わたしは同じ人類に向かって「わたしは~人です」と伝えることに、まったく意味を見いだせなくなったのだ。

「わたしは日本で生まれ育ちそのまま日本に住み続けています」「わたしはイタリアで生まれ、10歳以降はフランスで育ち、その後22歳で中国に移住して30年間中国にいます」と伝えることには意味があると思える。『どんな風土、どんな文化の中で生まれ育ち、暮らしているのか』ということは、わたしたちのアイデンティティーの形成に重要なことであり、相手に自分のことを知ってもらう上でもとても大きな情報だと思うから。

けれども、DNA上どの人種であるのかに注意を向けることにはとくに意義が見いだせない。日本人だとか中国人だとかタイ人だとかフランス人だとかスイス人だとか、も~~~どうだっていい!!俺たちみんな人類。それでいいじゃないか!!と思うようになった。

このことはわたしにとって、人類というものを思うときの感覚に大きく影響した。

ーわたしたちは、同種の生物。人類はみな兄弟で、わたしたちはひとつの大きな家族なのだー

日本にいたころの自分はそんなふうに思えたことなどなかった。外国人というものが、遠い遠いところにいる、ちっともなにを考えているのかわからない、別の生物のような感覚だった。けれども、知らぬ間に持っていた人種の壁が自分の中から崩れ去ってしまうと、わたしたち人類をひとつのものだと思う感覚は、なんだかはじめから知っていたことのように思える。

そうだったよね、同じ惑星で、同じ資源を分け合って、同じときを一緒に生きる仲間だったね。一蓮托生で、運命共同体だったね。
ばらばらで、誰ともつながっていない人なんて、ほんとうは世界中のどこにもいないんだったね。不要な人なんてひとりもいなくて、宇宙に自然発生したわたちたちが、それぞれの役割を担って存在していることを、ただ思い出せばいいだけだね・・・

ここに立ち返ることが、自分にこんなにも深い安心感を生むだなんて、思いもしないことだった。これが、わたしが海外に住んで最も良かったと思う点のうちのひとつだ。

誰かが傷ついたとき、それは我々人類の傷だ。
それから、

誰かがなにかをうまくやってくれたとき、
誰かが豊かになったとき、
誰かがめちゃめちゃかっこいいとき、
誰かがとても美しいとき、

どうか思ってみて欲しい。それらは、家族として誇ることができることなのだと。その影響は全人類にとっての喜びだと。それは、大いなるあなたが別の人になってやってみたことなのだと。

そのキッカケとして、宇宙人に、「見て見て!俺ら地球の人類って、こういうこともできるんだよ」「うちらはいろんな個体になって、いろいろやってるよ」「全員いないと成り立たないんだ。だから、大変な役をやってくれている人はすごいんだよ。彼らのおかげなんだ」と自慢すると考えてみてほしい。宇宙人に「うわ、お前らすげえじゃん!」と言われると考えてみてほしい。わたしたちは、なんと素敵な生物なのだろう。

わたしはモニカ・ベルッチを見ると嬉しい。わたしにとって、とても美しい人だから。人類であるわたしにとって、自慢の同胞だ。わたしはBazziの歌声を聞くと嬉しい。わたしにとって、銀河にまで届いてほしいほどに美しい歌声だから。人類であるわたしにとって、彼の声は我々同胞の誇りだ。

人間っていいなと思う。小さな子の、星の光のように無垢なたどたどしい走り方を、若者の弾け飛びそうな透明のエナジーを、歳を重ねた人のたくさんの納得を年輪にしたような優しい皺を、わたしたちの動作を、生みだした絵画を、心の防衛を、音楽への反応を、その愛を、この世のものとは思えぬほど美しく、嬉しいものと思う。

そしてわたしは自分を思うと嬉しい。こんなすばらしき世界の構成メンバーであることが嬉しい。だから、馬鹿なことをしてしまっても、ひととおりガックリしたり呆れたりしてから、図々しくこう思ってみるのだ。わたしはそれでも、この青い星の生物だ。この世界を創っているメンバーのうちのひとりだよ。と。わたしのことを、わたしひとりのことではないのだと思ってみる。

自分以外の人が人っ子ひとりいなくなってしまったら、生きてゆかれないほどに、とてつもなく悲しいでしょう。だから、すべての人種のすべての人の存在を、細かいことは考えずに、まずは手放しに喜んでしまおう。他の人がいるから、自分がいるのだと知っていよう・・!!

そして、あなたがいるからこの世界があるのだということを、こっそり知っている秘密みたいに、覚えておこう。そんな空のように大きくて、胸にたしかに光る点を、いつでも思い出せるように。

というわけで今日は、今日の思いを綴る回でありました。
今日もお互い、生きましたね。ご苦労さまでした。
それではまた、明日ねー!

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