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話題の小説『KYOMU(虚無)』を読んでみたらすごかった。

もしも世界中の人がこれを読んだとしたら、反射的に両手で机をバン!!と叩いて、やられたー!!と叫びたい感覚に襲われる者が、どれほどいることだろう。

私はこの小説を読んで、真理の探究をする人が受けるであろう深淵で痛快なショックを思うと、いたずら心のようなウキウキが湧いて、じっと座っていられないほどだった。前半ですでに、ウロウロと部屋の中を歩かずにいられなかったのである。

大島ケンスケ著作の小説、『KYOMU(虚無)』。

私は若かりしころ、「自分とはなんだろう」「この世界はなぜあるんだろう」「神とはなんだろう」「真理とはなんだろう」と、純粋に疑問に思っていた。思いあぐねて探究をはじめてしまったのだが、当時の自分にぜひとも読ませてあげたいと思う物語に出会った。読み終えて数日経つ今も、この出会いに興奮しており、深い喜びが続いている。

この作品が先月末にこの世に放たれてから、もはや哲学的作品だと言えるほどの素晴らしい書評が次々に届いていることに感動した。その様子を見て、さすらば私は逆にできるだけ易しく、読後の興奮と感動をお伝えしてみようと考えた。なぜならこれが、心から多くの人に読んでもらいたいと思う名著だからである。

ちなみに、中でもしびれた作品レベルのレビューがこちら。素晴らしい!!

2036年の廃れた世界で必死に慎重に生き延びようとする主人公、風次。
風次は眠りに落ちると、フータという人物として2221年の世界を生きる夢を見ていた。ところが、2221年の世界では、フータもまた2036年の世界で風次として生きる夢を見ていたー

ここから物語は予測不可に展開していくのだけれど、もうこの最初の設定自体がだまし絵のようでもあり、両面鏡のようでもあって、「ちょっと待った!」と感じてしまう人も多いハズ。小説『KYOMU』は、このシンプルな夢の重なりを用いて、鮮やかに真理を描いた名作だ。

私たちが「これは現実だ」と思うことと、「現実ではない」と思うこと。

私たちはそれらの間に「はっきりとした明確な違いがある」という”認識”を持っているはずだ。これは、現実。それ以外は、夢、想像、妄想、考え事、思考…。なぜって、常識的に。なんとなく。だって、そうだから。しかし改めて考えてみて欲しい。それは、本当だろうか。

その違いは、そう認識している自分を自分が認識してはじめて、その本人にとっての、違いになる。すでに禅問答のようであるが、しかし私たちはそもそも、自分自身を「現実に存在している」ということができるのだろうか。

言えるとしたら、どうやって…?
そしてまた逆に、言えないのだとしたら…?

な ら ば 一 体 あ な た は、何 者 な の だ ろ う か。

私たちがこうした命題に迫るとき、なぜか感じられるこの上なくピュアな「知りたい」という好奇心と、興奮。そしてそれとともに感じられるのは、自分の存在を揺るがすような漠然とした虚無への恐怖感だ。

これらを、物語に乗ってアトラクションのように味わい理解するのは非常に面白い体験になる。人は、そう認識していようともいまいとも、虚無の向こう側を覗いてみたい存在なのかもしれない。私はあなたに、それを覗いてみてほしくてこれを書いているのだ。

ところで、今私は虚無という言葉をあえて使ってみたが、この物語に”仕組まれ”た「虚無」という言葉は、そんな漠然とした陳腐な意味ではない。しかし、悔しいがそれをここで明かす訳にもいかない。なぜなら、これは読んだときのお楽しみだからである。

というのも、この作品には「やってくれたわい!」と言いたい痛快な伏線が周到に用意されているのだ。物語のすべてが伏線であり、それらが無駄なく美しく回収される過程が、この物語そのものに見事に完全性を付与している。この作品は、このような明快な構造でしか真理を小説で表現することはできないということを明かしたものだと言える。これはまったく言い過ぎなどではなく、喩えなどでもなく、文字通りそうなのだ。

学ぼうとして取りかかれば、ある意味ではこの世で最も難しいといえるであろう真理についての理解を、小説の分野で「やってくれたわい!」という楽しみに落とし込んでくれている非常に珍しい作品。やり遂げてくださったケンスケ氏の筆力と知性には舌を巻くほかない。「虚無」という言葉が何を意味するのか。これは、その痛快な楽しみのうちのひとつなのである。

そしてこの物語にはもう一つ別に伝えたい楽しみがある。それは、今この時代に生きる私たちが、いつか経験してもおかしくないと感じられる未来に向かって書かれているということ。それが、ファンタスティックであり、スリリングでもあり、同時に怖いほどにリアルなのだ。これにより、読み始めから不思議な世界に迷い込んだよう感覚を高い臨場感で経験できる。

世界に蔓延する謎のウイルス、食糧難や個人のデータ化、仮想世界、肉体の冷却保存など、物語を追いながら想像を巡らすだけで面白い未来の世界設定。そうして遠慮なく盛り込まれた世界観が心を揺さぶるエンタメ性となっているにも関わらず、かつ同時に、きっちりと無駄のない伏線になってもいるという驚き。

私は思った。ずるいよ。こんなにかっこいいのはずるいよ。めちゃくちゃ面白い漫画を読んでいるときみたいに、読む手が、いや目が、いや脳が、いや夢が?止められないんだよ。これを味わうだけでも脳内が旅行に行くみたいな経験ができる。で、最後まで、そう来るかァ~!が止まらないだなんて。ねー!やっぱりずるいでしょう!

私は個人的に、この物語の重要な謎を解く鍵がなんだったのかが明かされた256ページから先で、胸の真ん中を打たれてボロボロと涙が流れた。ずっとこの物語を覆っていた、主人公の生存戦略と言える、自己防衛による感情の鈍化。それから、現在の私たちの感覚では悲しすぎるほどに荒廃した世界。

その夢から目覚めるための鍵が一体なんだったのか。そして、それを呼び出すのに必要だったものとは…?ああ、なんだと思います?!って訊かれても困るのがはわかっているのだが。それをぜひとも、ご自身の目で確かめて欲しい。それは、アインシュタインが娘に宛てた手紙にも通ずるものがある。

この小説を読み終えて、改めて思った。

わたしは、夢を見られることが嬉しい。
その夢から覚めることができるのも嬉しい。
たとえその夢から覚めたという感覚それ自体が、夢なのだとしても。
意識であることって、人間であることって、生きているということって面白い。私が”いる”という夢って、こんなにも面白いのだ。

この本が夢でも、この読後感はわたしの真実。
たとえ”私”が、いなくても。

ああ、最高に面白かった。
ぜひとも読んでみてね!

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