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520/1096 【映画『自分がいる』】主役のあなたへ

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で520日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

520日目、SNSを開くとコロナウイルスに関する情報にあふれていて、さまざまな意見が飛び交っている。

わたしは、今回のコロナウイルスの騒ぎをできるかぎり今後の自分に活かしたいと思う。感染症の予防について、普段から取り組めることを改めて学んだ。知識をアップデートするために必要な情報を見極める力をつけなくてはならないと強く感じた。

コロナウイルスにかぎらずにインフルエンザの感染についても学ぶところが大きかった。少し前に始めたオンラインセッションが滞りなく実施できていることに助けられ、それも重要視している。

今日も大切なセッションを控えているのだけれど、外のムードに引っ張られずに自分の仕事を楽しもう。毎日投稿も、落ち着いて書こうと思う!

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わたしたちは小説を読んだり映画を観たりして、感情を揺さぶられる。
その小説や映画がフィクションだろうとそうでなかろうと、それには依らずに感動したり怖がったり喜んだりする。人間って素敵だなと思う。

フィクションだとわかっていても、それでもその中の物語に本気で心震わせ、涙したりするものだ。そこに臨場感を見出している。その感覚というのは、その人にとっての真実だ。わたしはあしたのジョーを何度見ても泣いてしまう。結末を知っていても、熱い涙が流れる。お前たちを思ってな・・・聞いているか、力石よ、ジョーよ・・・!!(涙)

わたしたちが、フィクションの話に流した涙が、ノンフィクションの話に流した涙にくらべて偽物だったりするわけではない。対象が何であれ、感じたものに優劣なんかない。フィクションに泣いたり感動したというときに、それらに意味がないというわけではない。そのときに感じた感覚自体は、わたしたちにとって本物で真実だ。

このとてもシンプルなことが、とてもとても深いことだと思う。

たとえば好きな人がいて、相手の「好きだ」という言葉を信じたからこそ、愛して許して追いかけて、感激したり傷ついたりして、悲しみを味わってさんざん泣いたとする。

そして相手に「好きだと言ったのは嘘だった」と言われたとしても、自分が感じた愛や悲しみを、「騙されていた」「それで傷ついたなんてバカだった」「意味がなかった」などと貶めなくていいのだ。

相手にとって嘘のストーリーだとしても、こちらがそこから感じたものは、宝石のような、真実だったのだ。

相手の言葉が嘘だろうとなんだろうと、それはわたしたちにはわからないことだ。「好きだと言ったのは嘘だった」という言葉がほんとうなのかどうかも、確かめようがない。

相手が本当のことを言っていても嘘を言っていても、自分の感覚だけは、それには依らずに本物だ。それはわたしたちにとって、自分にしかわからない真実だ。相手が嘘を言っていたからと言って、心を思いっきり使った自分を、馬鹿だなどと思う必要はどこにもないと思う。「嘘だったなんて、それじゃ泣いたこっちが大損だね」などと言う人がいるけれど、そんなことはないと思う。いいからあしたのジョーを見ろ!と思う。そしてその涙のワケを、心に手を当てて考えてみるんだ!!その涙はただの損なのか??無意味なのか?!

自分がなにかを感じた対象が何だとしても、たとえ誰かの嘘だったのだとしても、そこからいろいろ感じたな、愛しかったな悔しかったな、たくさんの気持ちを感じたな。すごい経験だったな。と思っていいのだ。

損したどころか、いろいろ感じたぶん、むしろお得だったと思っていいのだ。フィクション小説に泣いたのを、馬鹿だと思わなくていいのと同じように。「感じた」、それは素晴らしきことだ!

相手はこちらに、「好きだ」と言ったり「好きだと言ったのは嘘だった」と言ったりしながらなにかを感じることで、相手の真実を見つけた。こちらもその相手に関わることによって湧きあがった、自分の真実を見つけた。
一緒にコラボして互いの宝石を見つけた時間だった。そんなふうに思ってみると、思い出が書き換わるほどに見え方が違ってくる。

騙されない人生のほうがより優れているだなどと思う必要はどこにもないと思う。互いに、関わらなければ感じられなかったものを、経験することができた。悲しい経験だとしても、そこで感じたものは宝物だと思う。

そう考えられるようになると、そこには損も得も、失敗も成功もない世界が広がっている。損・得、失敗・成功、そういったことが、ドラマの味付け要素になってくる。

大切なのは、映画を見て恐れても、小説を読んで泣いても、それが「映画だ」「小説だ」とわかっていることではないかな。

映画ジュラシックパークの中の恐竜にどれほど怯えても、それは映画の中のことだと知っているから思いっきり怯えられる。思う存分楽しむためには、映画だとわかっていることがいちばんだ。でなければ、恐竜が外にいる気がして、家から出られなくなってしまう。不要な恐れを持ってしまうということだ。

わたしたちが、「自分がいる」と思っているからこそ恐れたり悲しんだりするのは、ちょうどフィクションの映画を見て恐れたり悲しんだりするのと同じことだ。その感覚は真実で、感じるのは素晴らしいことだと思う!

そこで、それを最大限に楽しむためには、この「自分がいる」という設定がフィクションだとわかっていること。

そうすると、損得、失敗成功、良い悪い、正しい間違っている、そういうことが素晴らしきドラマの味付けだとわかってくるから、不必要に恐れずに、不必要に囚われずに、思い切りそれらを楽しめる。

間違ってはいけない、失敗してはいけない、という考えにとらわれていなくてよくなる。失恋してはいけない、騙されてはいけない、損してはいけない、そうすると大変なことになる・・・というのは、外に恐竜がいるかも知れないと思っているのと同じことだものね。

【自分がいる】という設定で、自分が主人公をつとめている映画を見ていると思ってみると面白い。
その映画は、3Dメガネどころか、プレステVR(バーチャルリアリティ)どころか、有機的な肉体とともに経験できる超リアルな体験だ。

自分に起こることを、映画のストーリーにおけるスパイス要素だと思ってみよう。そうすると、そこに嫌なやつがいることや、困ったことが起きること、悲しみや切なさを味わうこと、危機に見舞われることが、損や失敗などでないことがわかってくる。そんなことよりも、ストーリーを好きなように味わえばいい!そんな心構えで生きていると、それに呼応するように面白い展開になってくるのだ・・・!(本当

生きている間、自分がいるという最高のエンタメを楽しもう。
外には恐竜がいないし、自分というものがいないのだとしたら。そう、大丈夫でしかないのだ。だから、楽しく恐れて、楽しく悲しんで、自分の手のひらの上で転がって気楽に真剣にいきましょう!

というわけで今日は、フィクションの世界で、わたしたちの感じる感覚を大切にしよう、フィクションだと知って楽しもう、せっかくならこの自分映画、安心して思い切り楽しもう!というお誘いでございました。
それではまた、明日ねー!!

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