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606/1096 神さまの活用のしかた

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で606日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

606日目・・・600日以上も続けてから気がついたことがある。それは、毎日投稿の最も難しい点は毎日の体調管理であるということだ。書くことはできる・・しかし、それを難しくするのは常に身体の不調なのである。

毎日100%元気でなくてもいいから、更新にあまり難が出ない程度には体調をキープしなくてはならない。三年間、一日たりとも欠かさずに書くためには、その間ひどい怪我や大病をせずにある程度は好調でいる必要がある。

三年間の執筆マラソンを続けてゴールに至れるかどうかというのは、書いている時間よりもむしろそれ以外の時間の過ごし方が左右するのだと思う。

昨日は左肩に痛みがあったから、それを逃し逃し書くのが大変だった。若い頃のわたしには、異常な猪突猛進姿勢とともに、なにかといえば命や運命を賭けたがるスリル中毒なところがあって、「死ななければなんとかなる!!言い訳は万死に値するのだぞ!!できなければ死ぬがよい!!」みたいな旧日本軍的な思想から動いてしまうところがあったけれども、そういう全力疾走というのは年単位では続かない。全力でなにかに当たってアドレナリンが噴出するのは強い快感だから癖になりやすいのだけれど、それをするとしばらくは無気力に襲われ、使い物にならなくなる。

この、その場限りの猪突猛進グセと旧日本軍的思想に支配されていたことが、己がなにかをコンスタントに長期継続することをひどく苦手にし、それが三日坊主の大きな原因となっていたように思う。三日坊主というのはただの怠け癖とは違うのではないだろうか・・・

三年のマラソンを良いペースで自分をいたわりながら走り切れたら、きっと自分はそこを更新することができる気がする。そんな冷静さを持てることが、静かに、そしてとても楽しみだ。

三日坊主から抜け出す鍵は、全力を出しきることに美徳を見出す心得の根本的な脱洗脳と、アドレナリン中毒からの更生、なのかもしれない。
そう考えると、たかが三日坊主と言えども、なかなかに根深いものだ。。

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今日は、というか今日も?日常にありがちなシチュエーションにおいて、自分が勝手にやっている変なリアクションや対処法を書いてみたいと思います。(今日は気分的にですます調

今日は主に、わたくしめの非常に図々しい「神さまの活用のしかた」について書いてみようと思います。わたしの心がけのようなものですが、もし使えそうなものがあればご活用くださいませ!とても善き、変人の戯言です・・アハハ・・ま、気にせず早速いってみましょう~

◯嫌な人に会ったとき

嫌な人、というのがそもそも嫌なワードです!わたしは家にばかりいるので、そう感じるようなお方と会うことはまず滅多にありません。が、たとえばSNSなどを通すなどしてそう思うことがあれば、自分は単純なので時間などかけずに間髪入れずにこれを思い出してしまいます。

「この人も、神の創造物か~~!」

恐ろしく単純ですが、これで一発です。もう、とても気分が良くなります。なんかその嫌な人が、嫌な人なのかどうかがよくわからなくなります。嫌な人の嫌だと思ったポイントは変わりませんが、それは自分の心に流れ込んで来ず、どこ吹く風となります。

というのも、まずは「この人は嫌な人だなあ」と思ったとしても、なにしろその人が神の創造物となると・・話はチョイと違ってきてしまうのです。

その嫌な気持ちは「いや待てよ?そもそも『嫌な人』ってなんだろう」とか「神さまはなぜ、この人物を創ったのだろう!」という壮大な疑問に置き換えられてしまいます。

そして神さまの意図をあれこれと勝手に想像してみると、その人のことがとても興味深い事象に見えてくるのです。ほら、そうするとなんだか、この世はでっかい宝島だと思えてくるじゃ~ありませんか!

そして結局は「意図などわからないけれど、すべての因果があって、この人の存在が起きているのだな」と思えてしまい、その人個人のみを責める術をこちらが無くします。相手が変わるのではなく、こちらが余計なものを無くすのです。なんならそれによって冷静になってみると、人を嫌だと思った自分のほうが嫌なやつだったりします。(笑)

◯忘れ物をしたとき

わたしは忘れ物をしたときに、なぜそれを持ってくることが自分にとって重要ではなかったのだろう?と考えてみます。忘れたということを、単に良くなかったこと、ただのミス、自分のダメなところとせずに、なにかのサインのように大切にしてみるのです。

はい。ここでまた神頼みです。いきなりここで「神さまに間違いはない前提」で見てみます。そう考えると、神さまはわざわざ忘れさせたと考えることができます。自分はそれを忘れたことがベストだったわけですよね。

そしてそれは、わたしにとってあまり重要ではないことだからだと思うのです。

極端に喩えてしまうと、1億円宝くじの当たった知らせをもらって、そのあと出かけるときにはすっかりそれを忘れている、ということがあるでしょうか。人は重大なことは忘れません。だから、忘れてしまったということは、そのモノに関するなにかが自分にとって重要ではなくて、忘れることで「ものモノに関連することで、なにかあなたにとってまったく重要ではないことを、重要だと思いこんでいませんか」という問いかけをされているのだと思ってみるのです。

そこから、ものごとを見る角度をふと変えてみると見えてくるのです。自分にとって不要だったものを、盲目的に重要視していたということが。これがなかなか面白いので、忘れ物をした際にはぜひにもそのチャンスに、トライして遊んでみてくださいね。

これをしていると、起こることはすべてベストだということが、いつの間にか自然に感じられるようになってきたりして、その変化も面白いのです!

◯迷ったとき

さまざまな選択で迷ってしまうとき。みなさんにもあることと思います。そんなときにもまた、図々しくも神さまを活用しているわたくしです。

本人から訊かれてもいないのに自分の価値観で勝手に人にするアドバイスを「クソバイス」と言ったりしますが、わたしはぬぁんと勝手に「神バイス」をもらっているのです。

どうやるのかというと、今の自分の迷い(悩み)に対して、もし神さまならなんとアドバイスをくれるだろう?と、ただ考えてみるだけなのです。
それじゃ、自分の想像じゃないか!と思われるかもしれませんが、いやいやこれが、なかなかどうして、自分の考えでは選べそうにないことや、思いつかないことなどが出てきたりもするのです。

そのとき、神さまについて勝手にこれらの前提をもって考えてみています。

神さまは、迷わない。
神さまは、答えを知っている。

ここを押さえたら、あとはもう神さまに訊いてみるだけです。「ああ、きっと神さまならこう言うだろうな~」と思うことが浮かんだら、迷いは捨てて、それにできるだけ近いことをしてみようと自分なりに努力してみます。

神さまならどうアドバイスをくれるだろう、と考えてみたとき、その選択には自分の中の良心や奥ではわかっている答えが反映されています。なので、超絶怖いことだったり、勇気のいることだったり、優しさを最大限に膨らまし切ったり、反対に冷静に落ち着いて対処したり、深くリラックスして極端な方に走らずに事に当たることだったり、これまでにないほどなにかを大きく許すことだったりなど、自分を試されたりなりたい自分になるための正しい努力を含むことなどが目白押しです。ま、わたしの場合は、つまりはそれを思いついていなかったり、それを選ぶのに躊躇しているようなときに、ウジウジと迷ったりしているのですけれどもね。

でもこれまで、それを選んだことで自分にわだかまりや後悔が残ったことは一度たりともありませんでした。やっぱりこれが答えだった!といつも思います。そしてそれらはわたしにとってそれまでの殻を破って進む結果を導いてくれているのです。

わたしは自分があんまり弱くて愚かな人物なので、こういうふうに神さまに頼って実生活にその存在概念を活用して感謝しつつ、自分もそんな神さま(宇宙と言ってもいいですね!)と一体だと思っています。
神さまに、ただ自分の暮らしを良くしてくれとか運が向くようにしてくれと頼んで崇め奉るよりも、いい感じがします。

というわけで、今日は神さまという概念の善き活用のしかたについて、わたしの感覚をシェアしてみました。ちょっとおふざけ調子で書いていますが、やってみるととても深淵で神聖な気持ちになるものです。それはあなたの現実によき形で現れて、あなたを助けてくれることでしょう!

ここ数日、ピンときてこんな感じの記事が続いていますが、これに心が響くお方や、うまく使って楽しめるお方のところへ届きますように。

それではまた、明日ね。

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