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476/1096 世界が、可愛い・・?

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で476日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

476日目、朝から家中を点検して、誰かが使ったあと置きっぱなしにしているものや、要るのか要らないのかを検討するつもりだったものを片っ端からチェックして片付けた。
すごいすっきり感とともにこれを書いている。フホーッさっぱりした~!

わたしはついつい過去の思い出のものを保存してしまいたくなるのが自分で嫌だったのだけれど、それがここ数年で一気に変化して、家中がスッキリしている方を好むようになった。今後、もっとそれが進む気がする。

けれども、断捨離をしてももちろん、手放したものが消え去るわけではない・・・世界のどこかで燃やされたり別の人の手に渡ったりして、あとは自分の知らないところで別の形になっていく。そこにいつまでも未練や後悔が残るくらいなら、捨てないで大切に保管しておくほうがいいものも中にはある気がする。断捨離は、思い切ってバンジーを飛ばないほうがいい作業、丁寧にすると良い作業、だと思う。

ブログを毎日書くことにもちょっと共通点があって、思い切って一度にドカーンとできないし、しないほうがいい。一定のテンションを持ってコンスタントに丁寧に向かうということを学ぶことができる。

ついバンジーを飛びがちな自分には、どちらもとてもいい修行だと思う。
今日もそのことをしかと心に置いて、今日の分を、一歩だけ、丁寧に歩もう!

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上の文を書いていて思った。もしかしたら、ブログ記事も自分にとって、一種の『創作品』だという感覚もあるのかもしれない。もちろんそんな大層なものではないから、自分にとっての勝手な思いだけれど・・

わたしは、人間の創作するものに、自然物に対するような愛しさが感じられる。何年も前に、古着屋の倉庫裏で販売前の古服の山を見かけたことがあるのだけど、無造作に重ねられた服たちがひとつひとつ、なんだか意識があるように見えて、切ないほどに可愛くて、とても哀れに見えたのを覚えている。

それらの服は、人が着やすいように、涼しいように、温かいように、素敵に見えるように、なにかしらそこに人間の良い思いがあって作られたものたちだ。

人間の作るほとんどのものには、なにかしら良い思いが込められているのだと思う。どんなものも、可愛いく見える。それがお金儲けのために作られたものだとしても、その商品自体には罪のない感じがして、無機質なものほど健気に愛しく見えたりする。人工物もまた、自然物に宿るものが宿り、そして常に中立で純粋で、とっても健気な創作物だと感じられる。

これが、自分を見つめる秘行の効果なのだと気づいたのはほんの少し前のことだ。わたしは、自分を観ていてある日見方が劇的にひっくり返って、自分がとても哀れで愛しきものとして見えてしまって以来、たとえばわかりやすいところでは夫との関係が激変したというのがあるのだけれど、他にもさまざまな驚きの気づきがあった。

世界をそれまでとは同じように見ていないということが、日常のあちこちでわかるのだった。たとえば、上に書いたように、物たちがとても純粋で愛しく見える。(個人セッション中、ご希望の方はこれについてのワークをお伝えして一緒にやることができるので、ぜひおっしゃってくださいね。

世界ってこんなに違った見方ができるんだなあ!という驚きが、あちこちに散らばっている。それまでは、物は物という感覚だったのに、人は何にでも自分を投影するものなのだと実感しては驚くということがあった。
面白いものだ!

自分が愛しき生物に見えるようになってから、女性がめっっっちゃ素敵に見えるようになった。わー女の人ってこんなにも仲間で、こんなにみんなきれいで可愛いもんなのかあ・・・ということに、改めて驚愕。
そして男性も、ガッツリ同じ生物同士の仲間であったし、なにより超絶可愛かったのだ。そんな感覚、知らなかったんだよ~~・・・

それから、物たちはみんなみんな、健気なのだ。宇宙の一部が、わざわざ、その物に成ったということがどうしようもなく可愛い。そしてそこに淡々と存在している。なんと健気な存在たち!ダムも、ペンも、ティーバッグも。
ただ在る。黙ってそこにいる。その時点で可愛い。こんにちは、と言ってみて「・・・」としか返ってこなくても、「こんにちは。。」と返ってきたとしても。物たちの、そのあるがままの愛しさよ!

愛って、人の胸にぎゅうぎゅうに小さく圧縮されてこもっていて、キッカケさえあればビッグバンを起こすものなのだと思う。

そのキッカケとは、自分で自分をいかに愛しているのかを体感すること。
それは結局ちっとも利己的なものではなく、自分にとどまるものではなくて、万物に働く感覚であり、また、それが他の人にもあると知ること。

そうすると、圧縮されていたその愛が、爆発したみたいに展開して、自分でも「わりゃ~~!!こんなものが自分の感覚に?!」と驚くような広がりを見せてくれる。人間って、世界を可愛いと思って観ることもできるのだということにほんとうに驚いた。この、本来は無味な、なんの意味付けもない世界に、こんなにも愛しさを感じることができる。

これをわたしは、万人に必要なことだとも思わず、そうなった人がそうでない人よりも偉かったり美しかったり本来の姿だったり高次だったり、ましてや正しいとか優れているとかいうことはまったくないと言いたい。けれど、体験としてたしかにオモロイのだ。だから、興味がある人が体験するのを手伝えるのは、ほんとうに嬉しいことだ。

世の中には、サーフィンとか、パラグライダーとか、子供を持つとか、臨死体験とか、いろんな面白いものがあって、こういう愛の体験もそのうちのひとつのようなものだと思う。

話がちょっとそれてしまったけれど、自分をどう見るか、それが世界をどう見るかということにダイレクトに関わっているのだと実感したことは、断捨離でも捨てられない、自分の大切な経験だ。

世界ってかわいい。宇宙って、かわいい。かわいくないこといっぱいなのに、でもひとつひとつのことはやっぱり、愛しさと哀れみの混ざりものだ・・

ちょうど、自分を観る目が変わると目のフィルターが変わってしまって、そこから世界を見るとそれまでと違って見える、というような感覚。

ものが可愛く見えると、世界が愛おしくなる。人は、世界をどんなふうにも観ることができる。そう、自由なのだ!
これが自分の生きる感覚に大きな安らぎをくれた。その安らぎを、ここから見えない電波のように読者さんに届けられたらいいなといつも思う。自分の書いたものを読んでくださるお方って、すごいご縁だものね!

というわけで今日は、物が可愛く見えるって幸せな感覚だね、世界をどう見るのかは、自分をどう見るのかによるんだね!という、体験についてのシェアでございました。それではまた、明日ね~!

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