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595/1096 自分に謝れない人へ

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で595日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

595日目、今日は夜のうちに執筆しはじめてみている。わたしは夜がとても好きなのだけれど、みなさんはどうだろう!でも、もし今自分が屋外で暮らしていたらどう思うかわからない。わたしは自分がホームレスになって真夏の公園で眠ったことを覚えている。(なぜホームレスになったのかはこちらを読んでみてね・・・)

そのとき、夜というのは優しいとも酷だとも思ったのだった。暗さが自分をひっそりと隠してくれるし、しかし危機感が高まる怖い時間でもあった。だから、夜を好きだと言えるのは今家があるからなのかもしれない。

わたしが古代人だったころ、夜は危険で身動きの取れない時間だった。(「わたしが」というのも変なのだけれど、おなじ我ら人類のことは自分のことという感じが!)皆で寄り添って夜をなんとかやり過ごして朝日を見ることができただけで、今日も生き直せるのだな・・と感じていたと思う。

あの時代のことを思えば、夜が好きだというのをまったくもって贅沢なことと思う。今の自分が夜を楽しめるのは、たくさんの人がいて、整備された街があって、法律があって社会があって、家の外壁があって電気があって、何重にも土台があってのことだから、その条件さえ変わればあっという間にひっくり返る感覚なのだ。

だから、「わたしは夜が好きです」と言うのはちょっと嘘だと感じる。環境さえ変われば、好きにもなり嫌いにもなり怖がりもする。わたしたちにはいつでも、あらゆる可能性がある。

でも今このとき、自分が無数のパラレルワールドの中から「夜の好きな自分」でいることを、ただ嬉しく受け取ろう。
なぜなら、窓の外の暗闇の中の電灯が、ほんとうに目に温かいからだ。無限の可能性の中の、ひとつの体験。

夜の執筆は、いいなあ・・

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昨夜は上の文章を書いてから睡魔に襲われて眠ってしまった!みなさんは睡魔に勝つことができるだろうか・・わたしはどうにもこれに弱く、電車でも、バスでも、スタバの前のベンチでも、公園でもファミレスでも眠ってしまう。起きたときに自分でも一応、「うい?また眠ってたぞ」と思うのだけれど、どうやら病気ではないようなのだ。だからこれは、あとはデリカシーの問題なのである。(不思議と物を盗まれたことはありません

ちょっと想像してみてほしいのだ、公園のベンチで眠っている大人の女性を。口を開けてカ~~スピ~~と眠っているところを・・・!起きたときにいつも、「うわあーやってしまったなあ」と思うのだけれど、世の人は優しいからみんな見て見ぬ振りをしてくれているのだと思う。

こんなところもわたしは、自分って変だな、どうしてこうなっちゃうのかなと思っていた。小さな、取るに足りないようなことだけれども、それでも自分を「なにか変だ」「どこか足りない」と思う原因になることって、いっぱいある。

どこでも眠ってしまうだけでなく、たとえばまったく意地悪なつもりや別の意図などどこにもなかったのに、誤解されるようなことを言ってしまうところもそうだ。もうずっと昔のことだけれど、あるとき同じクラブで働いている同僚女性たちとメイクについて話していて、チークを塗ったあとにそのブラシで顎のあたりをササッと撫でてチークの色を顎にもほんのちょっとだけ乗せた子がいたので、「どうしてチークを顎につけるの?」と訊いてみると、別の女性が「知らないの?チークに使った色って顎にも使うとバランスがいいのよ」と言うので、「そうなんだ!!知らなかった!みんなメイクのこと詳しくてすごいね!わたしぜんぜんわからないんだよ・・」と言ったらば、なぜかその場の空気が凍った。彼女たちはジロリと目を合わせて目配せをし合っていたのだけれど、わたしにはそれが、なぜなのかわからなかったのだった。

あとから、「姐さん、ああいうこと言うと誤解されますよ。あなたたちはメイク技がスゴいのね、わたしはキレイだからメイクに詳しくなる必要がなかったのよ。って暗に言っていると思われちゃうじゃないですか。悪気なくても言っちゃダメです」というようなことを、10歳も年下の女の子が教えてくれた。唖然として、それからガクッと落ち込んだ。そんなつもりは微塵にもなかった。そしてなぜそういう認識が、この子にはあってわたしにはないのだろうと思うと、穴に入りたいくらい恥ずかしかった。

わたしには頻繁にこういう事があって、それが人と話す時の自信を削いだ。知らずのうちにマズい発言をするんじゃないかと思うと、自分がちっとも信用できないのだ。危なっかしくてヒヤヒヤするし、黙っている方が無難だった。これもきっと取るに足りないことなのだろうけれども、自分にとってみれば重大なことと思えていたため、ビクビクする原因になっていたのだ。

自分はなんか変だ。どこか足りない。どこかおかしい。こういう思いがあるかぎり、わたしは自分が堂々としたり、人に自分をさらけ出したり、ましてや自分をあるがままに愛するということなど、到底できるはずはないと思っていた。そういう思いを消し、おかしなところを直して克服してからでなければ不可能だ、というガンとした思い込みがあった。だって、ダメなんだから!自分をよく思うなんて無理じゃん!という感じだ・・・

でも、ある日自分というものを傍目に見てみて、そんな自分をものすごく可哀想だと思ったときに、自分に死ぬほど侘びた。
わたしは自分に「どこでも寝るって頭おかしいよ」と何度も伝えていた。「空気も読めないなんてクズだよ」と、釘を差していた。「どうしてそんなにダメな人間に生まれたの」と小さな頃から何万回も思ってきた。「他の人みたいになれない不届き者だよ」と、「どこにも通用しない役立たずめ」と、何度、何度、刺してきたことだろう。自分はそれで、どれだけ辛い思いをしながら生きてきたのだろう。

以来、わたしは自分の味方をしてあげることにした。わたしは自分を守って生きることにした。同じダメ人間の自分なのに。いや、そんなにダメだからこそ、である。

それでわかったのだ。あるがままというのはほんとうにあるがままのことで、「なにかを消したり、なにかを直したり克服したり、うまくできるようになったり、現実が変化してお金が入るようになったりパートナーとうまくいくようになったりした暁の自分」ではなかった。そんな条件のなにもないものだった。

しかし、こんなに意外なことがあるだろうか?!わたしはあのとき、まずはもちろんこれまでの自分に申し訳なくてたまらなかったのだけれど、それと同じかそれ以上に、「こんなにシンプルすぎることかよ!!」という意外性に心底驚いたのだ。ただ、力を緩めるだけだった。ただ、緊張を緩めるだけだった。まずはいたわることだった。

今となっては、そんなわたしが「自分を愛せません」というご相談を多くいただくようになったのだけれど、それは逆に複雑なことをしていて、たくさん労力を使って反対のことをしているのだと思う。

愛する、のではないのだ。それがすでに反対だ。もうずっとずっと愛していたのだったと気がつくだけのことだ。ずーっと、自分は自分を愛してくれていたのだと気がつくだけのことなのだ。これまでこんなにも、自分からダメ出しをされ、自分から低評価を食らい、だから価値がないと自分から思われて、外側ばかりを見られ、振り返ってもらえず、他者にばかり愛されようとして無視され、他者にばかり認められようとして置いてけぼりにされてきたのに、それでも自分は自分のそんな横暴な勝手に振り回されて、ダメ出しをされる役に甘んじてくれて、なのに今も自分から愛されることを待っているのだから。

だからただ、そんな自分に「文句ばかり言ってごめんよ」と謝ってあげることが、最初の一歩ではないだろうか。「なにも悪くないのに、ただ生まれ育った環境に応じてきただけなのに、ダメだと言い続けてごめんね」と侘びてあげることではないだろうか。誰かと仲直りする時の、基本の基だ。

今自分に持っているダメ出しをすべて書き留めたあと、こう思ってみて欲しい。あなたがもし、ある赤ちゃんを預かったとして、その赤ちゃんが育ったときに、自分の影響で自分とよく似たところがあるとする。その子が「自分は駄目だから愛されなくて当然だな・・」と、今の自分と同じように思って傷ついていると知ったら、なんと言ってあげたいだろう。

先に書き出したダメ出しをその人に見せて、「見て。あなたにはこういうところがあるから、わたしもあなたを愛さないよ」と伝えるだろうか。そう伝えたあとに「可哀想なことを言ってしまったな」と思わないだろうか。そこには、ほんとうに1ミリも愛がないのだろうか。自分と同じようにダメな人かもしれない、でも、毎日のように傷つけたいと思うだろうか。

もちろん、この方法はワークとして慎重に考えたものではないから、やり方に欠点を見出そうと思えばいくらでもあると思う。でも、自分を他人のように見るという感覚に触れる一助となればと思ってお伝えしてみた。

自分さんをダメな人だと思う人ほど、そんなハイレベルな(?笑)人をお預かりしているって、スゴいことだと思ってみてほしい。それだけの役割を負えるって素晴らしいことだと思う。わたしは自分の人生について、さあ人間社会を器用に渡ることからここまでズレた人を預けますよ、それでも「これでよし」と自分を愛せるかな?その自分で人生を遊んで楽しめるかな?というゲームだと思っている。

そんな都合の良い考え方あるかいな!と言われたとしても、気にしないのだ。むしろ、どれだけ都合よく考えられるかだと思う。だってそれが、自分を大切にするためのことなのだから、考え方はどんなふうだっていいのだ。そのおかげでたくさんのコンプレックスによるビクビクからさよならして、人生にリラックスできていることを、万々歳だと思うから・・

というわけで今日は、だめな自分を愛するという王道系の話題について(笑)、またちょっと違うアプローチのお誘いをしてみました。誰かの心の琴線に触れることがありますように!!

それではまた、明日ねーー!

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