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423/1096 「そこそこ」が、最高!

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で423日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

423日目、わたしは朝から晩まで母にかかりっきりである。母はいつもなにかをしたがり、やることがなくなるとしょげてしまう。だから、あれこれ一緒にやったり、オンラインで好みそうな映画を探してダウンロードして観てもらったり、漫画を読んでもらったり、外に連れ出したりしている。

母はいまだにごみの分別を間違ったり、食洗機を間違って使用したりなどを繰り返してしまうので、それらをひとつひとつ修正している。
そして、わたしはとっても素晴らしい技を発見したのだ!

同じことを伝えても通用しない場合、呼吸を深くしながら目の焦点を遠くに合わせると、まったく心が揺れないのだ。それだけでなく、それを繰り返していると、それをしなくても揺れなくなるのである!
すると、さまざまな間違いはもはやまったく問題ではなくなるのである。母といると、娘が小さかった頃を思い出す。なにかを間違う人は、それだけで、それゆえに、可愛い人なのだ。

今日は自分の自分でも意外なほどの、この穏やかな気持ちをもって毎日投稿を書こう!そんな背景のもとで書かれたこの投稿から出る「いいカンジ」を、読む方がお好みでインストールできるようにするのだ!ぬおおよっしゃあ~~~!

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上の文を書いていて思ったのだけれど、「完ぺきな人はいない」という使い古された陳腐な言葉が、頭での理解を超えて腑に落ちると、もうそれだけでわたしたちの人生というはだいぶバラ色なのではないだろうか!

だいぶバラ色というのも変な言い方なのだけれど、完全にバラ色、と書かなかったのにはわけがある。まあ聴いてくれ・・!じゃない、まあ読んでおくれ~!

「完ぺきな人はいない」と腑に落ちると人生だいぶバラ色説、これに気づいた背景には、わたしがもともと、こんな人物・こんな人生のくせに、おかしな『完璧主義』だったことがある。

例えば、身体の健康についてもそうだった。ちょっと小さな不調があっても、なんか自分がだめな気がする。完璧に健康でないと、健康とは呼ばないのだと思っていた。

それから、なにをしても、ちょっと小さな失敗があると、ちゃんとできなかったと考えてしまう。完璧にやり遂げないと、成功したとは言えないのだと思っていた。

人格も、あれこれ短所や欠点があるから、もうそれだけでダメな人。そう思っていたのだ。

でも健康について言えば、ちょっとした不調があったとしても、今日もわたしはおかげさまで歩いたり目が見えたりしている。あれこれ元気に機能してくれているのだから、わたしはこのままでもとても健康なのだ。100%でなければ健康でないというわけではなく、どこかに不調があってもわたしは十分に良好な状態だと思うようになった。この逆転は、わたしにとってとても大きなことだった。考えてみれば、完璧じゃなきゃダメだと思うのは辛かった。そこそこでいい、そこそこで完璧、というのはものすごく楽な発想なのだ。

なにかをしたときもそう。失敗があったとしても、それを含めてその経験自体がぜんぶ成功だ。完璧にやれたかどうかなんて、気にかけることではないのだと思うようになった。世の中の人のあらゆる行動は、その多くが完全完璧ではないのだ。そう考えると、完璧というのはなんのことなのかわからなくなってくる。だいたい、すべての人が何もかもを完ぺきにこなす世界というものを考えてみると、怖ろしいものだ。つまり、目指しても成し得ないし、達成してもあまり嬉しくもないものなのだろう。おっかねえ世界だ!

人格だってそうだ。同じように、考えれば考えるほど、完璧な人格ってそもそもなんだろうということになってくる。すべての人がいかなる欠点も持たない世界というのもまた恐ろしい。そんなものはないのだ!

だから、完璧でないならダメだと思うと、とても大変どころか、それは終わらぬ空しき戦いなのだと思うのだ。

もちろん、たとえばなにかを完璧に創るぞ!などと思うのはとてもいいことだと思う。そのための苦楽や失敗を含めたすべてのプロセスを楽しむのは大好きだ。わたしがここで伝えてみたかったのは、そこで失敗をしないようにしようとか、あるいはそこで失敗したからダメ人間だ、などと思うととたんに苦しくなるということ。

わたしは勝手にこう思っている。

わたしたちは、そもそもいつだって、「そこそこ」なのだ。
容姿はパーフェクト、人格はブッダ、頭脳はIQ300、バスケをやればすべてのシュートが決まり、本を読めばすべて暗記できて、老いず病まず衰えず、生まれてこの方失敗も病気もしたことがない、なんて人は存在しないのだ。
完ぺきな人なんて、どこにも存在しない。

上のような人には、欠点を克服するという強さ、シュートができるようになるまでの鍛錬の面白みなどにおける経験を積むことができない、という弱点が生まれる。そうなると、完璧とはなんぞや、ということになってしまう。

だから、今日はちょっと疲れていたり、明日はどこかが痒かったり、たまに風邪を引いたり、なにかうまくいかなかったり、失敗が連続したり、傷ついたり打ちのめされたり忘れちゃったり間違ったりしながら生きている、そんないつもそこそこの調子なのがわたしたち人類なのだ。

そこそこが人生。
この場合のそこそことは、人間の思う「そこそこ」のこと。
人間界ではめちゃネガティブとされる言い方をすると、人生そんなものなのだ。どこか痛い、どこか痒い、ちょっと傷ついて、深く悲しくて。

逆に言えば、それで完全完璧なのだ。
完璧なのだから、これが揺らぐことはない。
揺らがないのだから、わたしたちはそこをさっさと諦めていいのだ。
完璧になろうとするのを、やめていいのだ。

そうさ!だからもう、

完璧にやろうとか、
失敗しないようにしようとか、
失敗しちゃうんじゃないかとか、
欠点を克服しようとか、

怒ったらダメだとか、
ネガティブなことを言ったらダメだとか、
常に笑顔でいられなきゃダメだとか、

悟れないからダメだとか
今日も元気をなくしたからダメだとか

そういうことを、思わなくてもいいのだ。
捨てていいのだ。
ベチャッと。ポイッと。ポーンと。

そして、

神さまから、
なあわたしの子よ、その向上心、持っていても面白くないのなら捨ててしまっておくれ。お主たち的な基準では、人間というのはそこそこなもの。そこそこで完璧。それでいいのじゃよ。だから、その、お主の不満だらけの人生を、そのままでOKということにして楽にしておくれ。

なあに、お主のすべてはわたしが決めたことなんじゃから、お主の容姿や運命や能力や個性などを、お主本人が調整しなくていいんじゃよ。。わしに任せてしまっていいのじゃ。大丈夫なんじゃよ。まあたまにはわたしを信用しなさいな。

それよりも、人生を味わっておくれ。完璧などほうっておいて、あれこれ使ってやってみておくれ。なに?神さまはなにもくれないじゃと?なにを言っているんじゃお主は。お主の冒険のために、宇宙ひとつを用意したのじゃぞ?そしてなにをするもなにを欲しがるも自由で、人生に採点はなく、お主は完璧なのじゃ。文句ないじゃろう?

そこそこのままでいい。それでこそ我が子じゃ!
では、君の健闘を祈る・・!

と言われたら、どうだろうかと考えてみてほしい。
ほら・・・!世界がだんだん・・・・バラ色に見えてくるではないか!
もちろん、だいぶバラ色というだけだ。完璧にバラ色じゃなくていいのだ。わたしたちはそんなふうに、そこそこでいいのだ。

成功していなくても大金持ちじゃなくても、
夢が叶っていなくても、元気じゃなくても、
意地悪でも気弱でも、孤独でも不合格でも。

それでいいんだぜ。ほんとなんだぜ。その上を目指すのも面白くていいけれど、そのままがダメなわけじゃない。つまらなかったら目指すのをやめて、人生を単純に楽しむのも最高にいいんだよ!

(でもね、楽しんでいると意外なことが起こるのも本当。ほら、現実にはその人の心が映し出されるからね~!

今日のわたしも、そこそこ。フフフ、つまりは今日も、完璧なのさ。
それではまた、明日ね!

毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)