【質問回答】イタリア語はどうやって勉強しているの?学びへの志はある?
暑い毎日ですね。夏だものね。だから、暑いということは仕方がないことですが、このようなとき、以前の私は暑さを感じないようにしたくて、暑さに対抗できる身体になることを求めていました。
しかし、そうしようとすると、とても難しい。微妙な差のように思えるかもしれませんが、ある時自分は、暑さに”対抗”するのではなく、暑いということを”ストレスにしない”のが最善なのだと気が付きました。それ以来、対抗するのとは反対で、暑さと共にあろうとし、暑さを友達であると思うようにしております。
まったく矛盾しているように思えるかもしれませんが、そのためにできることとして最も効果があったのは、ここ数年好んでやっているコールド・トレーニングです。深呼吸などを使った、超人ヴィム・ホフ氏の提案する呼吸法で身体を整えたあと、冷たい水に浸かるのです。
ちょっとの間手を入れているだけで、指先から真っ赤になってしまうほど冷たい水に、心を鎮めて浸かる。足を入れると最初は痛みが襲ってきますが、冷たさも心頭滅却すればどこ吹く風。これが、慣れてくると非常に楽しくて、ストレスが消え去り、心が柔らかく、身体が強くなる。
冷たさと友達になると、暑さもまた友達にできるようです。今年はまだ冷房を使っていないのですが、それでも元気でいられます。前回の冬には、例年よりずっと風邪をひかずに過ごすことができました。
これを人間関係に応用できはしないだろうか。冷たい人の嫌な感じなんて、どこ吹く風。そう思えたら、きっと暑苦しい人のこともストレスにならなくなるのかも?しれない。笑
と、そう書いたくせに自分は暑苦しくもまた長文ブログを書いている始末です…さて、本日はこちらのご質問にお答えいたしますよ。
しばらく前にヘアスタイルのオーダーについて書いた、フェイスブックの投稿を見てくださったのですね。
美容師さんは中国人の方でしたが、彼は私よりもずっとイタリア語が堪能でした。でも、お互い母国語でない場合、本当に意思疎通にはズレが生じやすいものですね。あの時の経験で、いろいろ勉強になりました。
私は、イタリアに住んで14年目ですが、実はイタリア語の勉強はまったくしておりません。
夫とは英語でのやり取りがベースなので、彼とのやりとりは英語で事足りてしまっています。娘は4歳からイタリアに居るのでイタリアが母国語になっていて、私にはイタリア語をベースに、日本語も少々使いながら話します。この娘とのやりとりが、自然とイタリア語のリスニングとスピーキングの練習になっているという感じです。
そんな調子なので、私は主治医と話したり、バーやレストランで食事をしたり、買い物したりするのにギリギリなんとかなるくらいのイタリア語しか話せません。
ですから、語学について、志と呼べるようなものもないのです。でも、語学を通してひとつだけ、自分の「やる気」というものについて深く学びになる体験をしたことがあります。
私がこれまでの人生で、自国語以外で勉強に燃えたことのある言語は、英語でした。
私は、イタリアに渡ってきた時、日本語以外に話せる言語がありませんでした。中学の途中あたりから、英語をどれだけ勉強しなくてはならないと思っても、どうしてもやることができなかったのです。それで、英語の勉強をサボるためならなんでもするというくらいの極端なサボり方をしてそのまま大人になったため、Would you like ~?の意味もわかりませんでした。
つまり、最初からどピンチに陥った状態で海外に移住してしまったのです。え?なぜって?それはですね…まァ大丈夫っしょ!未来の自分がなんとかするっしょ!としか考えていなかったからに他なりません。とにかくイキって能天気に考えておりました。
しかし、いざこちらで暮らし始めてみると、まず夫とのやり取りに非常に困りました。自分の意見を言うことができず、彼の言っていることもよくわからず。なにが一番困るかというと、なんでも言い負かされてしまうこと。
こっれがまた、猛烈に悔しいんですよ。誤解があるのに解くことができない。伝えたいことが伝わらない。一言言ってやりたいのに、言い方がわからないがために、ぐうの音も出ない。部屋を出ていく夫の背中を、拳を震わせながら見送る毎日…
当時、自分はペットや家畜の気持ちがわかると思いました。人間に向かって、ニャーとかワンとか、モーとかブヒとかヒヒーンとしか言えない生物の心が、今の私にはわかるぞ!!と思ったほどでした。
だから、悔しくて悔しくて、悔しさのあまり、単語の意味を調べずにはおれませんでした。できるだけ自分の思いに近いニュアンスで伝わるように、言い回しを調べる。慣用句を覚える。勝手に決めないでくれる?ってなんて言うんだろう。少しは黙って人の話を聞きなさいよ!って、アタシは家政婦じゃないのよ!アンタのお母さんでもない!って、どうやって言うんだろう。
料理の合間、パスタを茹でながら、皿洗いの最中にすら、鬼の形相で、目には怨みの炎を宿して、今日このフレーズだけは必ずや言い放ってやる、あの件に関しては絶対に誤解を解いてやる、今夜こそは死んでもこの決め台詞を言ってやる。そういう思いで、辞書や翻訳機を駆使して、勉強?というよりは、落とし穴を掘ってはその底にせっせと米兵を殺すための竹槍を仕込み続けたベトナム兵のような気分で、戦闘準備をしておりました。
本番で失敗しないように、同じフレーズを独り言でしつこく言い続け、夜は辞書にかじりついて、より説得力のある、より殺傷力の強い言い回しはないだろうかなどと調べて寝落ちしてしまい、朝起きると辞書に指を挟んだままだったりしたものでした。ああ言ってやりたい、こう言ってやりたいというアイデアが浮かんできて、悔しさのあまり、伝えたいと思うがあまり、そうせずには居られなかったのです。
そして、ある時から急激にその熱がおさまってきて、以降私は、そのベトナム兵式勉強法(笑)で言語を学ぶことをしなくなりました。その頃には、夫との家庭内でのやり取りに困ることがなくなったからです。動機がなくなると、人はいとも簡単に意欲が鎮まるのですね。
当たり前のことですが、言語というのは、そもそも、やり取りのためにあるものです。だから、やり取りしたいと思わない限り、必要にならないものですよね。言語というのは、勉強のためにあるものでもなけりゃ、成績表のスコアのためにあるものでもない。就職のためでも、スペック自慢のためにあるものでもなくて、やり取りをするためのツールなのです。だから、誰かとやり取りをしたいと思わない限り、身につけたいと思えなかったということですね。
この経験から私は、人は、自分が必要とすることのためには、どれほど嫌いなことでも勝手に努力するようになっているのだと思うようになりました。逆に言えば、どうしても努力をしてみたいと思えないことは、する必要のない、その人にとって要らないことなのです。
それがどれほど自分にとって、叶えるべき夢だとか、やり遂げるべき使命だとか、誰かのためにやるべきだと思えることだとしても、自分の中から湧き上がってくる思いがないのであれば、そもそも取り掛かることすらできません。
怖くても超えてみたいとか、悲しくても乗り越えたい、悔しくて放っておけない、面倒くさくても気になって仕方ない、できるようになってみたい、隠れてでもやりたい、などと思えないのであれば、やらなくていいのです。
やる必要がないと言うよりは、やろうにもできないでしょう。私たちが、心に湧いてくるワクワクや意欲をどうにもできないのと同じで、自分の魂がそっぽを向いていることなら、自分でもどうにもなりません。よく、他者を変えることはできないと言いますが、私たちは、たとえ自分のことだって、何でもかんでも自分の都合のいいように変えることはできません。自分というのは、自分のものなんかじゃない。
だから、どうしても意欲の湧かないことは、すっぱりと執着を捨ててグッバイです。縁のないものに、こだわるほうが間違っているのですね。
だから、無理やり答えるとすれば、学びたいものを、学びたいときに、学びたいだけ学ぶ。意欲が湧いたときに、興味が湧いたときに、それがフレッシュなうちに飛び込んでみる。志というわけではないですが、それが一番だと思っています。答えになっていますように!
というわけで、またね。
毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)