見出し画像

425/1096 幸せってなんだろう

吾輩は怠け者である。
しかしこの怠け者は、毎日何かを継続できる自分になりたいと夢見てしまった。夢見てしまったからには、そう夢見る己を幸せにしようと決めた。3年間・1096日の毎日投稿を自分に誓って、今日で425日。

(この毎日投稿では、まず初めに「怠け者が『毎日投稿』に挑戦する」にあたって、日々の心境の変化をレポートしています。そのあと点線の下「本日の話題」が入っているので、レポートを読みたくないお方は、点線まで飛ばしておくんなましね。)

425日目、今日は晴れている!空が晴れているのだ!3週間の雨に辟易としていたからほんとうに嬉しい。ああ、なんというありがたき幸せ!空がブルーだなんて、なんの祝福なのだろう。ありがとうありがとう。

わたしは今日も今目の前にあることをいっぱいに頑張ろう。晴れた空が応援歌だ(演歌風)わたしは今にしか存在しておらず、だからそれ以外にやれることはなく、それ以上の最善はないのだものね!
だから今日も、毎日投稿を書くのさ!!

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

海外に老母を呼び寄せて生活しており、娘は中学最後の追い上げで、夫は起業して間もなく、わたしの仕事は常に海を超えて日本へ行く必要がある。

わたしの生活は、もしわたしがあれもこれもやらなくてはならないと思い込みさえすれば、自分を寝る暇もないほどに忙しくさせる要素にあふれている。

2011年の4月頭に本格的にイタリアに移住して、こちらでの生活は9年目になる。あと4ヶ月で10年目に突入だ。その間、思い返せば常に常に転び続けて起き上がり続けていたような気がする。楽な日常、ルーティンワーク、のんびりと落ち着いて過ごしていたという時期がなかった。

今日はそのことを思って、「幸せってなんだろう」と思った。なんと陳腐な、なんと聞き慣れた、なんと深い疑問だろう。

みなさんにとっての、「幸せ」とはなんだろうか・・・
今持っていないものを手に入れること、だろうか。
お金があることだろうか。
恋人がいることだろうか。
家族があることだろうか。。。

幸せとはなんだろう。
苦労しないということだろうか。
心配がなくて楽だということだろうか。
願いが叶うということだろうか。
奇跡が起こることだろうか。

幸せは外側にどんなになにを築いたって、本人が感じなければ感じられないことだ・・・・
同じくまた、どんなに喜びを感じたって、それも別のものだと思う。
喜びなら幸せ、悲しみなら不幸、というとき、その、感情に左右されるものはまた別のものだと思うのだ。

その人の環境がどうであれ、それから感じているものが喜びだとしても悲しみだとしても、それらに左右されない不変のもの、それを幸せというのではないかな。などと考えた。

幸せってなんだろうな。

友だちがいるのは幸せなことだ・・・でも友達がいなくても幸せだ。
家族がいるのは幸せなことだ・・・でも家族がいなくても幸せだ。
美味しいものを食べられるのは幸せなことだ・・でも美味しくないものを食べていても幸せだ。
屋根と壁のあるところに眠れるのは幸せなことだ・・・でもわたしはホームレスに陥ったときも幸せだった。
晴れの日は幸せだ・・・でも雨の日だって幸せだ。

わたしが幸せだと感じるとき、なにをもってして、そう感じているのだろう。考えてみれば、このことを明確に言葉に落とし込んだことがないような気がする。

幸せだなあと思うとき・・・・!そうだなあ、

それは満足感とも似ているようで、まったく違う。たとえばわたしは、なにかを手に入れたときに「幸せだなあ」と思うことはあまりない。手に入れたときというのは、やったー!と思うけれども、同時に何かが終わった感じで、ちょっとした虚しさを感じる。

それから、欠乏感とも似ている。ぬおおお!これを達成してやるぜえ!みたいなとき。でもその最中に「ああ幸せだ」とは思わない。それに熱中している。あとから思うとそれはとても幸せなことだった、とは思うけれど。

他に、感謝とも似ている。ごめんね、ありがとう、、というようなとき。でも、これも満足感と同じように、幸せだなあとは思うことがない。感謝のときは感謝でいっぱいだ。

しかしでも、呪っているときだってなかなか幸せだ。おのれ~!と思っているときってなかなかエキサイトしているのだ。でも、それによって幸せだとは思わない。

わたしが幸せだと思うとき、、それは自分を真っ直ぐに見たときだと思う。
わたしは生きている。地球にいる。今日も生きている。今も生きている。

わたしは存在している。わたしは経験している。
わたしはいるとも言えていないとも言えて、わたしにはわからないことがいっぱいだ。わたしはどういうわけか、存在している。

わたしはたくさんのものを愛している。
愛しているものがたくさんたくさんある。
ここに挙げきれないほど、たくさん、たくさん。

わたしは月をきれいだなと思う。
星もきれいだなと思う。
月や星があってほしい。
月や星を愛している。

太陽を愛している。
植物も、動物も、超絶愛している。
海を愛している。
川も。湖も。水も。
光を、闇を、愛している。
闇と星のコラボレーションを、愛している。
どうしようもなく美しいと思う。

人間を愛している。赤ちゃんはホワホワだし、男も女も可愛くてきれいだ。人間がいなくなっちゃったら、どんなに寂しいだろう。

布団を、あたたかみを、スマホを愛している。
映画を、空気を、虫たちを愛している。

どこかに嫌いなものがいっぱいあるはずなのに、
わたしはなにがどこまで、どう嫌いなのだろう。
それが存在しなかったら、世の中にひとつでも何かが欠けたら、
あんなに可愛い猫はいないのに。
ああ、だからもう、どこをどう排除したいと考えたらよいのだろう。

ここは、なんと愛すべき世界だろう。
ぜんぶで創ってる、ひとつの世界。
わたしは幸せだな・・・・

そう、こんな感じだ!
幸せって、アイシテル、なのかな。
幸せって、現実、なのだね。

現実にジャッジがないとき、わたしたちは揺れない幸せを感じるのだろう。

葉っぱは大切。あなたも大切。あなたは太陽と同じだけ大切な人。
ね、なんだか、もうなんでもいいよね!って、お腹を出して草むらに寝っ転がっちゃいたいね。面白い世界。ああ今日も、西日が金色だなあ・・

と、そう思ったとき、つまり、「わたしは幸せではない」という人は何かを歪めて見ているのだということを知ろう。
現実というのはジャッジしなければそれ自体はPH0で真ん中で無意味で、どうとも見ることができるもの。幸福の材料にも不幸の材料にもなる。

この世界にいて不服がある人は、ちゃんと自分を見よう。
ちゃんと自分を観ると、自分が欲しい物を取りに行こうとせず、ジャッジして抑えていることがわかるよ。邪魔をしているのは自分自身だけ、だということもわかるよ。幸せを感じるも感じないも、自分が世界をどう観ているかによるんだね。

ほんじゃ幸せって、きっと自分の歪んだ見方を捨てちゃうことなんだ。
自分の決めつけなんて、当てにならないと知っている感覚。
心配や不安も杞憂だと知っている感覚。
だから進みたきゃ進めるのだと知っている感覚。
自分ってなんかよくわからんものだな、と知っている感覚!
なんだか意外な答え、だね!

というわけで今日は、幸せって自分の歪みを捨てて、いろいろわからないね~というところに寛いでいることではないかな、という思いのシェアでございました。それではまた、明日ねー!


※この毎日投稿、読んで文章に触れてくださったお方に、慈愛がたくさん届く無音の響きを込めております。受け取るコツは、一瞬でもいいので、壇珠がそう言うならまあ、愛させてあげるとしましょう!と思ってみること。許可してあげよう、みたいな感じで構いません。
感覚を開いていると、気持ちに変化があるのがわかります。遊びの一環として、毎日の一瞬の習慣にしてみてね。



毎日無料で書いておりますが、お布施を送っていただくと本当に喜びます。愛と感謝の念を送りつけます。(笑)