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虎屋のある景色 デザインを巡る、場所と時間の旅①

富士山に向かうと心が弾む。どこに行くのにも、旅は心弾むものなんだけど、東名高速で静岡方面に向かっていて、突如そこに富士山の形を見つけた時、必ず「富士山だ!」と言ってしまう。それが、バスに乗って一人で移動していても隣の人に共有したくなって、そんな自分を律しながら携帯を取り出し写真を撮る。
私が御殿場に訪れたこの日は、まだ梅雨明けが待ち遠しい、霧雨のけむる日。その日は生憎富士山の姿を拝めなかったけれど、御殿場プレミアムアウトレットで、竣工写真の立会いがあるために御殿場に向かい、せっかくなら付近の建築を見たいということで、「虎屋菓寮 御殿場」と「とらや工房」を訪れた。
虎屋にまつわる、建築と時間のたびへ。

とらやの歴史

と、店内に入る前に、まずは時間の旅を。
「とらや」の暖簾は、東京に住んでいたら子供の頃に、右から「やらと」と読んで、「いやいや、これはとらやだよ」と親に正された記憶があるかもしれない。格式があって、ここぞというときのお土産に持って行くのに間違いない。「とらや」の羊羹を東京銘菓と思っている方は多いのではないでしょうか?
虎屋は室町時代後期、京都が創業のお菓子です。時は後陽成天皇のご在位中から(1586年〜1611年)御所御用のお菓子として使われてきました。
現代の当主は第十八代目ということですからすごい歴史です。
現在東京銘菓の顔となり、全国各地で愛されている虎屋には、実は長い変遷の歴史がありました。

京都から下りもの

かつて、江戸時代には「下りもの」という言葉が使われていた。
これは、京都から江戸へきたもののこと。古来、都として天皇の御在所であった京都大阪の畿内は「上方」であり、今も関西で行われる「上方歌舞伎・上方落語」という使われ方もその名残。京都から江戸へきたものは「くだりもの」(=質の良いもの)という格付けの言葉であったようです。
それに対し、江戸でできたものは、もう下りようがないもの=下らないもの 自嘲を込めて使っていたため、「下らないもの」という言葉には「質がわるい・取るに足りない」などの意味が込められるようになった。
話が逸れましたが、虎屋はまさに、京都から江戸に下ったもの。
江戸から明治時代に時代が大転換を迎えた際、天皇が京都から東京へ場所を移ると共に、虎屋は東京へ来たのでした。

虎屋の決断

虎屋は「御所御用のお菓子」として長く御所の方々から愛されていたお菓子。京都では当時、虎屋と松屋の2軒の菓子屋が御所御用を務めていた。(もう一軒二口屋というのがありましたが、これは幕末には虎屋により吸収された)
時代が大政奉還を迎え遷都となった時、この2軒の菓子屋は別々の道を辿ることとなる。虎屋は江戸へ下り、松屋は残った。
一方、幕府の方にも幕府御用を勤めた5軒の菓子屋があった。しかし、政権交代による困難、武士が生きる道をなくし、地方の大名はそれぞれ領国へ引き上げたため、この菓子屋5軒は店をたたむこととなった。
東西の菓子屋の存亡。
京都の2軒は、選択は違えど互いに苦境を乗り越えました。
虎屋が京都から東京に行くのは、大きな難しい決断だったと考えられる。
虎屋は明治天皇が遷都の前年に京都から東京へ行幸した際にも東京へ随行しており、明治2年、遷都のために京都御所を発った天皇と共に、東京進出を図ることを決断する。その時は、京都に当主は残り、東京には出張所として状況を見るということだった。
江戸から明治の混乱期、このようにして虎屋は京都から東海道を伝い、江戸へ活路を探したのだ。
その後、虎屋は新天地での挑戦に艱難辛苦を乗り越えながらも、東京で御所御用の菓子屋として、また御所のみならず、伊藤博文はじめ様々な財界人からも愛されるようになりました。初めは店頭販売ではなく、注文販売という商売方法だったのが、広告を打ち認知度をあげて行く。
次第に多くの人たちから愛される「東京のお菓子」の代名詞となるまでになりました。

ゴルフ最中ホールインワンは、三菱財閥、岩崎小弥太(1879-1945)との関係から生まれた。この最中が誕生したのは大正15年。
岩崎家では頻繁に、宮家・軍関係・外国の賓客を招き宴会を催していた。ある時、パーティーを開く際に、岩崎小弥太の妻、孝子夫人は何か友人たちを驚かせる趣向はないかと考え、虎屋の店員を読んでゴルフボールのお菓子はできないかと相談した。まだ、第二次世界大戦後に日本にゴルフブームがやってくるずっと前の話である。
なかなか型ができず、試行錯誤を凝らしてやっと完成したという。

パーティーの当日、ゴルフを終えた一同が席に着くと箱に入ったゴルフボールが1ダースずつ置かれている。当時はゴルフボールも滅多に手に入らないものだったので、お客様たちは大喜びだったが、中を開けて見ると意外にもおお菓子だったのが大いにウケて会が盛り上がったということだ。
(引用:『虎屋』和菓子と歩んだ五百年 黒川光博著)

今まで知らずにいた虎屋の歴史。
それを知ったことで、その味ひとつにも価値のあるものだということに気がつく。ストーリーを知った時、人は様々に想像しながら時間の旅に思いを馳せます。
そんな歴史を感じながら、いざ店内へ。

虎屋菓寮 御殿場店

2006年竣工 内藤廣建築
昨年、赤坂に虎屋菓寮がリニューアルされて随分話題になりました。建築家は内藤廣。数々の虎屋のプロジェクトを手がけた中での第一店舗目がこの御殿場店だ。

庇を大きく取り組んだ外観。そのひさしを支えるのは十字の柱。

4mほどの高さを持つ店内を緑の光が明るく照らし出す。

そして、ここでは私はこの日初めての富士山を見ることができた。
美しくて思わず声をあげたくなる富士山。

どこから手をつけたら良いのか迷う。そして端を楊枝で切ると、まるで水面のように美しい光が現れた。

「1978年、御殿場に虎屋の主力工場が建てられました。京都・東京についでゆかりの地となった御殿場ならではの羊羹が『四季の富士』です」
この「四季の富士」は季節ごとに4シリーズとなっており、御殿場限定で販売される。
ぜひ、この富士山を食べるだけにでも毎シーズン訪れたい場所である。

とらや工房

虎屋菓寮 御殿場店からさらに市内へ。民家を抜けた静かな土地に「とらや工房」がある。こちらは、旧岸信介邸(1969年 設計:吉田五十八)に隣接する土地にあり、山門から入ると竹林を抜けて小川のせせらぎを聞きながらゆっくりと散策ができる自然豊かな場所だ。

山門をくぐり抜け、竹林の風に誘われ中に進む。

庭を囲むようにして湾曲した建物がゆったりと構える。ひさし部分のルーバーからは陽の光が入り込み、庭の一部になったような空間を楽しむことができる。

店内に足を踏み入れると、御殿場店の瀟洒な店内の雰囲気とは打って変わって、全体を木で設えられた空間はまるでログハウスのような印象を受ける。
内藤廣氏は、「このプロジェクトでは、庭づくりに建物以上の神経を使った。建物は質素で、庭の一部のようなもので良い。環境全体の豊かさがメッセージなのだ」と記している。

山門を入ると、別世界に足を踏み入れてしまい、まるで、光を受ける印象派の庭園の絵画の中に自ら入り込んでしまったような場所。
都会の喧騒とは異世界の時間が流れる。

以前、今の当主の先代、黒川光博さんがテレビのバラエティー番組に出演されていた時、あまりの素敵な人柄に驚いた。老舗の社長がこんなにも革新的で、柔軟で、新しいことに挑戦している姿が、私の老舗企業のイメージと全くかけ離れていた。(勝手に、老舗の菓子屋の当主は気難しいおじいさんのイメージ。)
ここは、工房という名の通り、職人さんがここでつくったお菓子が食べられる場所。
本来、お菓子というのは限られた地域の産物として、「作り手」と「食べ手」がお互いの顔が見られる関係性の中で商売されていた、その原点に立ち返る場所がここ「とらや工房」ということだ。

虎屋は、500年もの歴史の中で「今」という時代に向き合い、お客様と職人が変わらぬ関係で美味しさを伝えて来たのだろう。
私が次また羊羹を食べる時、500年前も同じように美味しく食べた人がいることに悠久な時の流れを感じながら味わって食べたい。

虎屋のある景色。
今も昔も、食べる人をほっこり笑顔にさせる場所。

(参考:虎屋 和菓子と歩んだ五百年 新潮新書 / 虎屋社史  虎屋HPより /
 新建築2007年6月 / 新建築2008年9月)

虎屋菓寮 御殿場店
住所:静岡県御殿場市新橋728-1
電話:0550-83-6990
営業時間:10:00〜19:00
とらや工房(羊羹の扱いはありません)
住所:静岡県御殿場市東山1022-1
電話 :0550-81-2233
営業時間:4月-9月 10時-18時 / 10月-3月 10時-17時
※売切れ次第終了
建築家:内藤廣
早稲田大学大学院修士課程終了後、フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所、菊竹清訓建築設計事務所を経て、現事務所・内藤廣建築設計事務所を設立。東京大学名誉教授。海の博物館(日本建築学会賞、第18回吉田五十八賞など)、牧野富太郎記念館(第13回村野藤吾賞)その他多数受賞。

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