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『いる』ことによって誰かの『する』が生まれる

なにかをしなくちゃいけないと思っているとき、『いる』ことは、怠惰的なもので無価値な行為と感じる。

ただ、『いる』ことは、ときには周りに変化を生み出すことがある。

妻の実家にちょくちょく行く。
最近、モノの整理がはじまった。

部屋にあふれるモノは、
実家の課題のひとつだった。

「やらないとね」と親子で話すものの
やらなきゃいけない状態が続いていた。

自分はその話を聞きつつ、
「片付けましょう」「手伝いますよ」
といったことも言わず、
ただそこに『いる』ことを続けた。

ちょっとした手持ち無沙汰な状態。
それを受け入れてみた。 

PCを開いて作業しながら、
ときには頷いたり、
少し離れて会話を見守ったりして。

ある日、
テーブル脇に高く積み上がった雑誌を
処分することになった。

それ以降、
その周辺から少しずつ
共同作業の片付けが始まっていった。

以前、飼っていた猫の設備も片付けた。

妻のお父さんは
猫にご飯をあげるお皿を持って
「これはとっておこうかな。」
と言った。

「また猫、飼うの?」
と妻は聞いた。

「わからないけど」
と言ってお皿を寄せた。

「前は『飼わない』って言ってたのに。『わからない』なんだなーって。変わってきたのかな。」

自宅に戻ってから、
妻は興味深そうに
お父さんの変化について話した。

妻が続けて話す。

「君がいないときに、『部屋が片付いてきてスッキリするね』ってお父さんに言ったんだよ。そしたら、『気分もスッとするね』って言ってた。」

モノを動かして整理するとき、
それにまつわる記憶もまた
動き始める。

蘇った記憶は家族で
あらためて共有される。

妻と、実家と、自分。
他者(外)だった自分が、家(内)にいることで
これまでにない余白が空間に生まれる。

その余白を埋めたい欲求に駆られつつも
そこにいることを続ける。

この余白は新たな共同体によって
生まれたもの。

きっかけとなったからと言って
自分が率先して埋めてしまうと
せっかくの機会を奪ってしまう。

自分が『する』ことによって
誰かの『する』ことを奪う

そんなことが起きるのだと思うし、
これまでもきっとたくさんあった。

自分が『いる』ことによって
誰かの『する』が生まれる

という働きは
共同体で暮らしていくにあたって
欠かせない要素だと感じた。

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