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恋の呪い オルタネィティブ

 その高校教師は、地獄の底から呪っていた。
 あの女子高生が憎い。なぜペラペラ喋った?
 あれ程、硬く、口止めしておいておいたのに!
 その英語教師は、教え子に手を出して、聖職者の道から外れた。
 その若くて瑞々しい肢体は、禁断の果実であったかも知れない。
 それはとても甘く、身も心も酔わせた。
 高校卒業後であったら、許された可能性はまだあった。
 だが世間というものは目敏く、女子高生のボロを素早く拾った。
 高校教師が教職を退くまではマッハだった。
 体感的には、音速さえ超えていたかもしれない。
 気が付いたら、職を失い、全てを失っていた。
 有り金を全て、酒と競馬と風俗で使い果たした。
 デリヘル嬢から、店経由でクレームさえきた。
 一度だけ、教え子だった女子生徒が訪ねてきたが、手を出したら、逃げられた。
 「……そんな人じゃなかったのに!あなたのドロシーはどこに行ったの?」
 その女子生徒は、最後に泣きながらそう言っていた。
 ドロシー?何の事か分からない。悪いのは全部あの女子高生だ。
 なぜペラペラ喋った。それだけが許せない!
 部屋に積まれた英語の本を見た。山積みされている。
 英文科を出た。アメリカ文学を専攻している。
 大学でイギリス文学とアメリカ文学を比較した。
 結果、アメリカ文学を選んだ。現代性を感じたからだ。
 何か目指していたものがあったような気がする。何だったか?
 だがもうそんな事など、どうでもいい。
 ライターで火を点けた。よく燃える。
 だがまだ足りない。燃料を追加だ。
 高校教師は自ら灯油を頭から被ると、追加燃料に点火した。
 ああ、よく燃える。最高の燃料だ。俺。
 科学万能の世の中だか何だか知らないが、魔人になってやる!魔法使いだ!
 いや、炎の魔人だ。あの女子高生を呪う。絶対に許さない。
 生と死の限界を超えて、呪いの魔人に転生してやる!魔界転生だ。
 精神が今変容し、姿形をドロドロと変えて行く。炎が燃え盛る。
 高校教師はアパートを全焼させて死に絶えた。
 だが世界には、炎の魔人が新たに誕生していた。
 早速、復讐相手である女子高生の元に向かう。
 小癪な事に、またあの女は恋をしていた。
 高校もいつの間にか卒業して、大学のキャンパスにいた。
 若い男と談笑さえしている。
 馬鹿め。呪ってやる。覚悟しろ。
 幸せの手前で、奈落の底に叩き落としてやる。
 だが驚いた事に、あの女は、その若い男を大学卒業までうっちゃっておいた。
 信じられない。関係だけ作って放置か。意味が分からない。
 だがこれがあの女の本性なんだ。きっと次の獲物を狙っている。
 そしていつも網を張って、罠にかかるのを待っている。クモだ。
 大学卒業後、会社に入り、そこでまたあの女は恋に落ちていた。
 性懲りもない。次の犠牲者は誰だ?
 それは30代の上長だった。
 ああ、可哀想に。お前は騙されている。この女は悪だ。魔だ。
 この炎の魔人が、あの女子高生の魔の手から救ってやる。
 それは地下の駐車場だった。
 例によって、あの女は網を張って待っている。
 「……次長、今夜ちょっとだけいいですか?」
 その30代の次長は、車に乗ろうとしたところで、彼女に呼び止められた。
 すでに関係もあり、いつもの事だったので、特に警戒している様子はない。
 だがこの日、元女子高生改めOLは勝負に出ようとしていた。
 炎の魔人も知っている。この女は必ず自分から言う。性格だ。
 「私、次長と将来を……」
 OLがそう言い始めた時、炎の魔人は笑顔で彼女の右肩に手を回した。
 途端にOLが右肩を押さえて、その場に崩れた。
 「大丈夫か?どうした?」
 流石に30代の次長はすぐに駆け寄った。
 彼女は白目を剥いて、すでに意識を失っている。
 だがこの女は不意に立ち上がり、自ら力強く宣言した。
 「……我、炎の魔人。今この女に天誅を下せり!」
 白目を剥いたまま、その女は、まるで男のような話し方をした。
 30代の次長は完全に停止していた。状況についていけない。
 「お前もこの女の肉体に惑わされるな。この女の武器だ。凶器だ。大量破壊兵器だ」
 あたかもよく知っているかのような話ぶりだった。
 「何だ?中二病か……?」
 30代の次長は辛うじて発話した。それしか説明できる言葉を持っていなかった。
 炎の魔人は可笑しかった。だから思い切り高笑いした。
 次の機会は、この女の学生時代の一コ上の先輩だった。
 また状況を整えて、網を張っている。クモだ。
 だがそんな事は許さない。必ず妨害してやる。
 「……お願い、私の側にいて。離れないで欲しいの」
 その女は哀れっぽい声を出していた。演技だ。女優だ。アカデミー賞だ。
 だがなぜかこの男は逡巡していた。ふと、視線がこちらを捉えた。
 なんだ?こちらが見えているのか?まぁいい。
 炎の魔人はまた笑顔で、彼女の右肩に手を回した。
 悲鳴を上げて女は倒れた。最後に手が伸びる。希望か。
 だが炎の魔人は、それさえも払ってしまった。混沌の箱が今開かれる。
 なぜかこの男は動かず、黙って状況を見ていた。
 不意に女が立ち上がり、自ら力強く宣言した。
 「……我、炎の魔人。今この女に天誅を下せり!」
 白目を剥いたまま、その女は、まるで男のように絶叫していた。
 「やっぱり二重人格だったのか……。道理でおかしいと思っていた」
 男は冷静だった。30代の次長から、話を聞いていたのかも知れない。
 「馬鹿め。我は炎の魔人。この女に手を出す男たちを守っているのだ!」
 「……単なる中二病なら笑い話だけど、これは病気だよ。深刻だ」
 それは違う。炎の魔人は実在する。すなわち、灯油を被って炎上した高校教師だ。
 「お前は一体何者だ!彼女から離れろ!」
 生意気にもこの男は対抗してきた。だが勘違いしている。これは病気ではない。
 「俺は炎の魔人だ。この女を焼き尽くす。そして炎の中から新たな命が誕生する」
 「……何を言っている?非科学的な言説はやめろ。世界は理性でできている!」
 これはとんだ馬鹿者だ。だがもうこの女には手を出さないだろう。
 炎の魔人は可笑しかった。だから思い切り高笑いした。そして立ち去った。
 ああ、可笑しくて腹が減った。ラーメンを食べよう。
 やっぱりラーメンと言えば家系だ。この女にも教えて、ぜひ味わせよう。
 元女子高生改め元OLは、家系ラーメンを喰らっていた。お店が回転する。繁盛する。
 おや?ホームセンターで包丁を買っているぞ?
 そんな指示を出した覚えはないが、まぁいい。
 ん?何か幸せそうで、にやけた女が歩いているな。
 ちょっと破滅させてみるか。胸が邪魔だな。えい。
 ほら、死んだ。可笑しい。炎の魔人は高笑いした。
 だが刺した元女子高生の裡側で、決定的な変化が起きていた。
 人として形成してきた精神が粉々に砕け散って、クモが誕生した。
 紫色の毒々しいアレニェだ。新生だ。魔界転生だ。
 炎の魔人の高笑いは止まらなかった。復讐完了だ。
 これでこの女は元に戻らない。元に戻れない。ははは!
 「……ちょっとそこのあなた。いい加減にしなさい」
 金髪碧眼の死神美少女が立っていた。TOYOTAのバンもある。クレープ屋さんだ。
 「何だお前?ふざけているのか?」
 「……あなたくらい悪行を重ねると、もうエンマ様の手を煩わせるまでもない」
 死神美少女は鎌を回すと、嘆息した。
 「何だと?お前こそ何者だ?」
 炎の魔人はいきり立った。
 「エンマ様の代理で私が裁く。名もなき死神だけど、それくらいの決裁権はある」
 「俺は炎の魔人だ。この女に天誅を下している。これは正当な権利だ」
 死神美少女が呆れたような顔をした。そして言った。
 「Time flies like an arrow!(諸行無常!)」
 炎の魔人は戸惑った。今何て言った?
 「もう英語まで分からなくなっちゃったのね。あなたの精神は……」
 英語?何の話だ?意味が分からない。光陰矢の如しじゃないのか?いや、それは諸行無常か?
 「元々私はギリシャ・ローマ世界出身だから、英語とか仏教は得意じゃないけど……」
 炎の魔人はトラのように低く唸っていた。イライラする。殺すか?
 「あなたは運命の選択肢を間違えた。欲望を感じた方を選んでしまった。だからああなった。約束が成立する訳がない。あなたは、欲望ではなく、夢を感じた方を選ぶべきだった」
 不意に一人の女子生徒がフラッシュバックした。意味が分からない。
 「男女は神様が定めた手順に従って結ばれないとダメなのよ。地上で行われている結婚式の本当の意味って分かる?ああ、でももうそんな事を言っても無駄か……」
 その死神美少女は、断罪の鎌を振るった。炎の魔人は真っ二つに両断されて消えた。
 これが恋の呪い、オルタネィティブ、選択肢を間違えた男の話だ。
 
          『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード44

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