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春蚕(しゅんさん)

 その男は、やたらと昔の本が好きで、庵に閉じこもって、読書に明け暮れ、世間とも付き合わなかった。そして時々、ものを書き、思索する。そんな生活だ。もう何年そうしているか、自分でも分からない。最後に科挙を受けたのは、いつの事だったか、思い出せない。
 号は春蚕と言う。
 離れの庵に、独り棲んでいる。この辺りは桑畑が多い。そこから取った。
 書や画を嗜み、詩もそらんずる。筆を取れば、大したものだ。大家の真似もできる。とにかく模倣だけは上手い。そう簡単に、真贋を見抜かれない自信もある。その代わり、どの作品も独自性が薄かった。故に書画で、一流にはなれなかった。だが諦めない。他の道もある。
 ――ああ、世間は遠く、庵は寒いな。いつまで紡げばいい?
 自分は、科挙を受ける一介の儒生、読書人に過ぎない。だがこれでも昔は、神童だった。神童とは、十五歳以下で科挙を受ける者を指す。科挙には、神童科という特別枠があり、四書五経の一つに通じていないといけない。受験できるだけでも凄い事なので、そう呼ばれる。
 だが科挙に落ち続け、家族にも呆れられて、見放されてしまった。大体、あの殿試というのがよくない。会試及第者を殿中に招き、天子が直接下問されたお題について、その場で答えないといけない。いつも緊張して、頓珍漢な回答をしていた。無論、わざとだ。
 官吏なんて、向いていないのだ。本音を言えば、書を読み、たまに筆を取って、思いに沈み、夜月を眺める生活がいい。お金なんて、どこからか入って来るものだ。あとは家族か、家の用人が、何か食べ物でも包んで、そこらに置いていけばいい。風流だ。
 ――昔神童今妖怪。吐糸春蚕。
 近所の童たちに、あばら庵に妖怪が棲んでいる。すねかじりだと言われる始末。自分は妖怪ではない。仙人だ。霞を食っている。そう言えば、最近家族の姿を見ない。用人も来ない。さてはとうとう、世話する事も諦めたな。自分は芽も出ない種か。
 では、来年こそ、殿試も突破して、故郷に錦を飾ろう。
 科挙は年齢不問だ。永遠に挑戦できる。外国人と女と罪人だけが受けられない。
 そうと決まれば、酒だ。こうやって軒先で横になって、徳利と盃を並べて、書を読む。だが共に人生を楽しむ酒友もなく、水のような酒ならず、酒のような水を呑む。ふと春風に吹かれて、花がひとひら、盃に落ちる。澄んだ水面に淡い 一色。昔読んだ一節が過る。
 ――落花時泛酒。(ふり落ちる花、酒に浮かぶ)(注77)
 独り身のつれづれだ。こういう時こそ、青楼の妓女でもいいから、誰か横におればよいのに。
 奥に掛けられた一枚の画を見る。美人画だ。題を『北方佳人』と言う。絵師は知られていない。模写した。なお画の右下に、痩金体(そうきんたい)で漢詩が書かれている。
 
 北方有佳人(北方に美しい人がいる)
 絶世而独立(絶世でただ独り)
 一顧傾人城(一度振り返れば、城が傾く)
 再顧傾人国(再び振り返れば、国が傾く)
 寧不知傾城与傾国(城や国が傾く事は知っているが)
 佳人難再得(美しい人は再び得難い)(注78)
  
 この画を見ると、いつも若い頃を思い出す。昨日の出来事のように覚えている。
 あの頃は良かった。庵に集まって、ああでもない。こうでもないと天下国家を論じた。とにかく、水のように酒を呑むのではなく、酒のような水を、ただ呑んで過ごした。
 そして女がいないという事で、描いたのが、あの美人画だ。借りてきて、その場で模写した。本物よりよく描けている。元の古い画は、詩はない。今様に付けた。だが題材だから、蛇足ではない。その証拠に、皆この女を愛した。画の前で、よく集まって話したものだ。
 特に模写した自分が、一番執着したかも知れない。密かに名も付けて呼んでいた。
 神童でもなくなった頃、自分より先に、官吏になった友人と、よくこの女の話をしていた。
 「……腹が減ったら、本を煮て食う訳にもいかない。寒いからと言って、本を着る訳にもいかない。精々、火にくべて暖を取るだけだ。焚書は知恵だ。学問は無駄だ」
 儒生にあるまじき発言だったが、一理ある。自分は嘆息した。
 「一体何のために受験しているのやら。四書五経は本当に役に立つのか?」
 殿試に落ちた都からの帰り道、そう呟くと、即物的な友人は答えた。
 「……死則同穴」(注77)
 「それは、夫婦の話だろう」
 「……生きている時は部屋を分けるが、死んだら同じ墓穴に入れる。皆そうだろう」
 その時、自分はふと友人に尋ねてみた。予ねてからの疑問だ。
 「人間、死んだら、どうなるんだ?」
 「……子不語怪力乱心」(聖人君子は怪しげな事を語らない)(注79)
 「それだと結局、何も分からないままじゃないか?」
 「……生きている時は分からない。死んでみないと分からない。だから考えるだけ無駄だ」
 処世術だ。本質的な事に何一つ答えていない。だが人生、本質が現れる瞬間がある。美だ。
 「でも佳人はいるだろう?」
 有人は奇妙な目で見た。またその話かという目だ。確かにいつも話している。執着か。
 「……それはいるだろう。だがお前の言う佳人は、神仙の類じゃないか?」
 そうかもしれない。絶世の美女。それは最早、人ではない。神仙だ。いや、神変か。
 「……神仙の類は、怪力乱心の範疇だ。語り得ない。生身の佳人なら、探せばいるだろうよ」
 そうではないのだ。この世を超えた美は存在する。美の世界はきっとある。だが友人は分かってくれない。そんなある日の夕方、つくねんと庵に座っていると、一人の女が入ってきた。
 画の女だ。北方佳人だ。紛れもない。ずっと見ていたので分かる。
 「毎日、お心の中で私の名前を唱えていて、一度も挨拶に来ないのは、礼に反します故」
 画の女はそう説明した。それからこうも言った。
 「世の人たちに、神仙も神変もないと思われるのも、癪でございましょう」
 見ると、掛けてある絵に背景しかない。佳人が消えている。詩も消えていた。
 「……疑っていない。神仙は存在する。神変もある」
 自分がそう答えると、北方佳人は微笑んだ。
 「それはようございました。ところでたまには外にお出でになられては?」
 庵の外で草葉が揺れている。春の陽射しがうら暖かい。一瞬、庵を忘れた。
 「……いや、儒生だ。科挙がある身。勉強しなくては」
 画の女は、あでやかに微笑んだ。
 「私が何も知らないと思って?」
 実は今、科挙と関係のない道に入っている。必死に糸を紡いでいる。人生の寄り道だ。
 「その話、いつ終わるのですか?」
 実は果てしない。決して終わりのない物語かもしれない。庵で見る夢幻だ。
 「じゃあ、気分を変えて、外に出ましょう」
 なぜか北方佳人は、自分を庵の外に連れて行こうとする。だがそれは無理だ。
 「……消渇(しょうけつ)を患いて……」(注80)
 最近、具合が悪い日が多い。怠いのだ。だから外に出ない。水ばかり飲んでいる。
 「それはお気の毒に。でも少しの間、外に出ては如何?」
 「……医者にかかろうかと思うが、勉強が気になって……」
 すると、涙を滝のように流しながら、画の女は言った。
 「科挙なんて、とっくの昔に終わっていますわ」
 「……そうだったのか?」
 全然、知らなかった。いや、待て。それはどういう事だ?天子様は?
 「……今の世はどうなっている?」
 思わず、母屋の方を見た。変わらずある。いや、一瞬揺らめいて見えた。蜃気楼のようだ。
 「鳥は空を飛ばず、馬は道を走らず、色とりどりの箱が空を飛び、道を走っていますわ」
 箱?それは何の話だ?ずっと庵の中に引き籠っていたが、世の中変わったのか?
 「とても言い難い事ですけど、実はあなた様の生も終わっています」
 沈黙が訪れた。それはどういう事だ?自分は死んでいた?いつ?
 「ずっと具合が悪くて、もう生と死の境目が曖昧になっていたから、分からなくても無理はありません。ですが、もうこれだけ時間が経ったのです。もう天子様の世でもございません」
 押し黙った。この庵にいると、時間を忘れる。悠久の庵だ。
 「もうあの世で、徳を積み、お経を詠んで、懺悔なさらなければいけませんわ」
 自分は儒生だ。仏道修行はやっていない。だがあの世は気になる。
 「……自分はどういう状態にあるんだ?霊か?」
 北方佳人は、細い指先で、生糸をもてあそびながら、こう言った。
 「ええ、とっくにお体は朽ちて、土に還りました。あなた様の情念だけが漂っております」
 「……情念?」
 「そうです。執着と言ってもいい。それは、女が殿方を想う気持ちであったり、様々です」
 そうか。執着するものはないと思っていたが。ずっと庵にいて、分からなくなったのか。
 「女は、慕うあまり、情念だけが、殿方に飛んで行って、姿を現してしまう事があります」
 「……それは生霊じゃないか?」
 「いえ、恋と言います。勘のいい殿方なら、女の情念に気が付く事があります」
 それは分からないが、自分もそういう状態なのか。情念だけ存在している?霊か。
 「そう。あなた様は情念が強過ぎた。だから千年という時も飛び越えた」
 不意に、庵の周りの風景が変わった。母屋もない。桑畑だけは変わらずあった。
 「あなた様は美を追い求めた。それは間違っていない。だがいつしか執着となり、死んで強い情念となった。だから今も糸を紡いでいる」
 そうだ。続きを書かないといけない。糸を吐き出して、紡ぎ上げるのだ。これは本能だ。本の葉をたくさん蚕食し、糸を吐き出して、新しい書を作る。これ以上の喜びはない。
 「今なら再び転生して、人の道にも戻れます」
 いや、今はこのままでいい。自分は春蚕だ。だがいつかこの庵を出る。それまで糸を紡ぐ。見渡すとそこは桑畑だった。一体の蚕がいた。春蚕だ。女の手の上で、糸を吐いている。
 「お可哀想なあなた様。でも本の葉をたくさん用意して、養ってあげますね」
 桑畑の外れに、朽ちた庵があり、中に一枚の画があった。古い書の山もある。
 もう掠れて、薄くなっているが、女の手の平に、糸を吐く蚕の美人画があった。
 この画の中で、今も蚕だけが動いて、糸を吐き出していると言う。

注77 『遊仙窟』張文成 生没年未詳 伝奇小説を書いた。張鷟とも言われる。唐
注78 『傾城複傾國』李延年 生没年未詳 歌舞を得意とした。前漢
注79 『論語』孔子 紀元前553~479年 儒教の祖 四聖の一人 魯 
注80 消渇=diabetes

         『シン・聊斎志異(りょうさいしい)』エピソード101

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