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『魂の邂逅――石牟礼道子と渡辺京二』ノート

米本浩二著 新潮社刊
2021年4月10日

 石牟礼道子は『苦海浄土――わが水俣病』で有名な作家・詩人で活動家。渡辺京二は、わが国が近代化する以前の幕末から明治以前に来日した外国人の著作や日記などの記録を通して、古き良き日本を描いた『逝きし世の面影』で有名な在野の思想史家、歴史家、評論家で、また編集者であり活動家でもあった。
 この本を本屋で手にするまで、私はこの二人の関係を結びつけたこともなかった。
 渡辺京二の作品から受ける人となりと、石牟礼道子の懊悩する魂が結びつかなかった
からである。

 私が学生時代に『苦海浄土――わが水俣病』を読んで、石牟礼道子の文章に表れる感性に圧倒され、惹かれたが、一方である種の怨念がこもっている一語一節には敬遠したくなるような気持ちもあった。
 
 作家と編集者として出会い、水俣闘争の立ち上げと挫折をともに味わいながら、道子の半世紀に及ぶ執筆活動を支え、食事など身の回りのことまで面倒を見た京二。
 石牟礼道子に対する著者の取材に渡辺京二は、このように答える。
「世界は引き裂けている。自分の存在も引き裂けている。言葉が伝わらない。そういう根源的な不幸感が石牟礼さんにはあります。それはやはり人間の本質を衝いている。道子さんは、人間の本質を非常に鋭く、深く、感じ取っていく。普通の人間には、そうないことです。彼女の根源的な不幸感をぼくはカワイソウニと言ったのです」。
「あれだけ才能があって、才気があって、強烈な自我がある。こうしたいと思えば絶対やってしまう。止められない。しかし、自分がこうしたいと思うことが、周囲との摩擦や衝突を生む。ある意味での狂女でもあるわけです。それで、彼女は、ずっと大変だった。そのへんも、ぼくはカワイソウニと言ったわけなのです」。

 この〝カワイソウニ〟という言葉で私が連想するのは、夏目漱石の小説『三四郎』にでてくる科白である。与次郎が〝Pity’s akin to love〟を「かわいそうだたほれたってことよ」と翻訳して廣田先生に叱られたという話だ。この英語を直訳すれば〝憐れみは恋の始まり〟とでもなるのだろうが、与次郎の訳を野々宮は名訳だと褒めるのだ。

 少々俗っぽい表現であるが、京二の道子への思いの始まりがこの〝カワイソウニ〟という言葉に表現されている。
 常に死という甘い誘惑に絡みとられ、死を意識し〝道行き〟に憧れるほどの道子の根源的な不幸感に共鳴し、同情し、彼女の才能を生かすためにいわば戦友となった京二。この二人にはそれぞれ配偶者や子供もいるので、ふたりの関係は近代社会的な価値観から見れば、「不義」と見なされるのであろう。
 しかし、お互いの家族は守ることを誓い合いながら、日常的に精神的に深く繋がり、道子に献身的に尽くすふたりの関係はすでに〝魂の邂逅〟としか表現できえない次元にまで到達しているのである。
 
 石牟礼道子の死後、新聞各紙から渡辺京二は追悼文を頼まれたが、「いやいや、私は身内ですから。身内が書いたらおかしゅうございます」と断り、「夫ですから」と付け加える。またある雑誌の編集者から追悼文を頼まれたときには、「わが嫁の、追悼文を書いたらヘンでしょう」と断り、その編集者が息をのむ場面がある。石牟礼道子が亡くなったいまなら本心を吐露できると思ったのであろうか。
 全ての依頼を断った渡辺京二はたったひとつ追悼文を書いた。それは2018年6月号の『藍生』という俳人の黒田杏子(ももこ)さん主宰の雑誌に掲載された。
「じゃなんでお前は50年間も原稿清書やら雑務処理やら、掃除片付けから食事の面倒までみたのかとお尋ねですか。好きでやっただけで、オレの勝手だよ、と答えればよいのですが、もちろんわたしは故人の仕事が単に大変な才能というにとどまらず、近代的な書くという行為を超える根源性を持つと信じたからこそ、いろいろお手伝いしました。」
 その次に〝カワイソウニ〟という言葉について、「しかし、そういう大変な使命を担った詩人だからこそ、お手伝いに意義を感じたのだと言えば、もうひとつ本当ではありません。私は故人のうちに、この世に生まれてイヤだ、さびしいとグズリ泣きしている女の子、あまりに強烈な自我に恵まれたゆえに、つねにまわりと葛藤せざるをえない女の子を認め、カワイソウニとずっと思っておりました。カワイソウニと思えばこそ、庇ってあげたかったのでした。」

 そこには庇護者である渡辺京二を演じつつ、道子の強烈な個性と、自分も同じように感じていた不幸感に惹きつけられ、この人こそ〝道行き〟の相手と、ともに認め合い、〈ともに死ねるところがあるとすれば、それはバリゲードの上でだけ〉と書き付ける渡辺京二の無償の献身の姿があった。

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