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『蛇と月と蛙』ノート

田口ランディ著
朝日新聞出版刊
 
 帯に「人と動物と月は今もかかわりあっているのです。」とある。実は前回紹介した『月と蛇と縄文人』(大島直行著 角川ソフィア文庫)に、この本が引用されていたので、興味の延長でこの本を購入した。
 
 全体は、「影のはなし」、「むしがいる」「4ヶ月、3週と2日」、「河童と遭う」、「月夜の晩に」、そして表題作の「蛇と月と蛙」のちょっと毛色の変わった6つの物語からなる。
 
「影のはなし」の主人公には、突然、何かが確信として降りてくる。それは予感とか予知という曖昧なものではなく、絶対の真実として主人公の中に提示されるのだ。物語のはじまりは、「もうすぐ母が死ぬ」というものであった。しかし、人の死がわかるわけではなく、霊的な能力でもなく、それまで自分が考えもしなかったことが、まるで世界が〝くるん〟と反転しまうような感じで、いきなり確信するのだ。いってみれば意識を突き抜けてやってきて意識化されるのである。その後、母親は4か月の植物状態を経て他界する。
 
 主人公が「あの感じ」を初めて経験したのは小学校3年生の時だ。その時感じたことをあえて言葉にすれば「私は、死ぬまで、影を探す」というものだ。
 母親の入院が長引くにしたがって、主人公は何だか自分が母の死をじっと待っているハイエナのような気分になってくる。生きるというのは残酷で、〝死ぬ方がまし〟ということが世の中にはたくさんあるのだ。母が死ぬことついては自分はちっとも悲しくもないが、悲しまない自分を悪人のように感じてしまうのだ。
 
 実家に安置された母親の顔を覗き込んで、影が消えていることに気がつく。死ぬと影が消えるのか。だから死に顔はみんな穏やかなのだと腑に落ちた。その影は母の死とともに消えたことで、影は生の証しだと気がつくのだ。
 
「4ヶ月、3週と2日」は、チャウシェスク大統領による独裁政権のルーマニアを舞台に、妊娠したルームメイトの違法中絶を手助けするヒロインの一日を描いた映画のタイトルだ。第60回カンヌ国際映画祭のパルム・ドールなど多くの映画賞を獲得した2007年の映画の内容に関連して、主人公の女性作家(この本の作者?)がルーマニアに招かれる。ルーマニアの出版社がその作家の作品をルーマニアで出版したいというのだ。「女流作家フェア」という企画で、アメリカと日本の「過激な女性作家二人が愛と性を語る」というテーマでの記者会見までセットされていて戸惑うという虚実織り交ぜた話だ。
 
 表題作の「蛇と月と蛙」は、人間と生き物をとりあげた11の短い物語からなる。
 交通事故で両足を失った男と蛇の話。家畜は人間を目指している向上心旺盛な動物だとのたまう御神酒(それも焼酎)が好きな神様(!)の新聞を読んでの独白。味噌の仕込みと月の運行が関係していると発見した味噌づくり業者の話。美しい姉と蛇の化身である男との交合を目撃した弟の話。祖母の畑のそばに、縄文人の竪穴式住居を友だち20人くらいと再現したはいいが、その竪穴式からおびただしい数の蛙が湧き出してきた話。旅行会社に就職が決まっていたが、1995年の兵庫県南部地震(災害の名称は「阪神・淡路大震災」)で運命が変わり、助産婦になった女性の話。小学生の時、ピアノの教師の家でレッスンを始めようとした時、庭で大きな音がしたので見ると、3匹のアオダイショウが絡み合っていた話――「生き物は、淫らでけなげだなあと思いました。でもきっと、神様の目から見たら、人間も同じように淫らでけなげな、生き物のひとつなのかもしれないですね」――。ダイビング旅行でメキシコに行ったとき、ゾウアザラシから求愛された話。
 あと4つあるのだが、ここで字数が尽きてしまった。
 
 この作者は何故このような人間の本性や生き物としての本能に根ざした、どこか幻想的で不思議で、アニミズム的な話が書けるのか不思議だ。

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