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挑戦と傷、そして継続

長男がバスケットを習い始めた。アメリカの独立プロリーグにも参戦したという日本人女性が運営している。小学校の体育館ハーフサイズぐらいある練習場は、自宅を増築して作ったらしい。さすがアメリカ、規模が違う。

無料見学の初回。人見知りの長男は、モジモジしながらも楽しそうにボールを触っていた。初めて投げたシュートがたまたまゴールに入る快挙。本人もご満悦な様子だった。週2回、通うことに。

ふだん彼は、英語環境で過ごしている。バスケで運動習慣を身に付けつつ、日本語コミュニケーションの機会を得られるなら一石二鳥だと思った。

5回ほど通った頃だろうか。練習が終わり、お見送りをしてもらう中で、コーチがこんな声をかけてくれた。

「これからどんどん練習して、長男くんが自分を出せるようになったときのプレイが楽しみ!」

この発言を聞いたとき、少し驚いてしまった。私はスポーツの練習を続けた先に「自分らしいプレイが生まれる」といった発想を持っていなかったからだ。

練習は、上手くなるためにやると思っていた。
練習は、試合に勝つためにやると思っていた。
練習は、体を鍛えるためにやると思っていた。

これらの側面が第一なのには違いないけれど。それよりも、練習の積み重ねにより息子らしいプレイが生まれるかと想像したら、とてもワクワクしたのだ。

そんなふうに個性を見てくれようとするコーチに好感を持った。いつも明るく、にこやか。経歴を拝見するとインターハイや日本代表といった言葉が並ぶ、プロフェッショナルな方。

ひとつの分野で突き抜けた人ほど気配りや配慮に長けているとは、どこで聞いた教えだっけ。

よろしくお願いしますと深々頭を下げて、いつまでも笑顔で手を振ってくれるコーチの姿を振り返って確認しながら、練習場を後にした。


今日、私は小さな舞台に立った。この日のために3ヶ月ほど準備を進めてきた。とは言っても、仕事や育児をこなす中、趣味の一環としてやってきただけだ。

ところが、ようやく終えた今。端的に言って、めちゃくちゃ落ち込んでいる。練習をふまえた「このぐらいはやれるだろう」という見積もりの10分の1も発揮できなかったからだ。

人前でパフォーマンスした。緊張により声と足が震え、事前に覚えた原稿は間違えずに言えたものの、講師からさんざん指摘されたポイントに気を回す余裕など皆無だった。撃沈である。

順位が付いたり、賞をもらえたりする場ではない。なのに、なぜこんなに傷ついているのか?

おそらく、まったく自分を出せなかったからだ。終えただけ。そして、この経験を通して初めて気付いた。もしかしたら息子のコーチが言っていたのは、かなり高次元の話なのではないかと。

「自分らしいプレイ」は、挑戦の対極に位置する考え方だと思っていた。試合に勝つ、称号を目指す、といった高い精神力と根強い鍛錬が求められるものではなく、とにかく楽しめばいい。そんなメッセージに近い形で受け取っていた。

でも、舞台に立ってみて、普段の自分通りにやることがどれほど難しいのか、思い知った。自分らしさの発揮とは、それこそ高い精神力と根強い鍛錬の末に実現できるのだ。

書くことにおいても、同じではないかと思う。頭で考える通りの構想を実現するためには、書いて、書いて、書きまくって、やっと投影できる技術が身に付き、らしさも生まれるのではないだろうか。

つい最近、第一線で活躍するプロの作家さんと言葉を交わす機会を持ったのだが、アウトプットの裏側に隠れた努力と作業の量に圧倒されるばかりだった。私の取り組みなど足元にも及ばず、何よりも覚悟の足りなさを痛感した。

インターハイ、日本代表。息子のコーチは、私たち一般人が想像しえる以上の鍛錬を積んできたはずだ。だからこそ知っているのかもしれない。自分らしくプレイすることの、難しさと楽しさを。


そして今、私は傷口にビールを塗り込みながら考えている。この痛みは、少なくとも挑戦した証。ものすごく小さな規模だし、趣味の範疇ではあるけれど。やらない選択肢もあった中、やると決めて引き受けた。

しばらく、チャレンジすることから遠ざかっていた。本気で向き合えば向き合うほど、結果に傷ついてしまう。何かを目指す気力も、失敗を受け入れる余裕も、ずっとなかった。正直、現在もない。

けれど、かつてはそうやって生きてきたはずだった。無謀に足を踏み入れ、実力が伴わずボロボロになり、再び静かに奮い立つ。その感覚を、久しぶりに思い出した。楽しさとはだいぶ違うが、生きている実感はあった。

今回の舞台は、書くことにも繋がる。挑戦と引き換えに、傷と、わずかな灯火を得た。長らく持っていなかった目標や方向性の輪郭を、少しだけ捉えつつある。さらに描いた先で必ず出会う傷だらけの自分を、今の私は受け止められるだろうか。

岐路に立っている。ぐっと突き詰める道を歩くのか、ゆるりと楽しめればいい道を歩くのか。興奮冷めやらぬ頭では、正しい判断はできそうもない。しばし考えてみたいと思う。いずれにせよ、その入口には「継続」という看板がある。

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