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自分に価値付けしようともがく

アメリカに行くと決めた頃、わたしは全然英語が喋れなかった。TOEICは大学時代に受けた550点が最高レベルで、大学以降はまともに英語なんて勉強していなかったから、多分もっとダメダメだった。

渡米が決まってから週に一回英会話に通い始めたけれど、付け焼き刃とはこのこと。日本語もそこそこ話せる講師だったため甘えも出て、いざ出発するときはまさに背水の陣。

そんな調子だから、実際にアメリカでの生活が始まると、もうめちゃくちゃに打ちのめされた。一年目だけで一生分の恥をかいたんじゃないかというぐらい。

いちばん辛かったのは自分が「何もできない存在」に成り下がったことだった。

当時も仕事はしていたけれど、英語ができないせいで発揮できるパワーやスキルは10分の1ぐらいだったように思う。30年かけて少しずつ少しずつ積み上げてきたプライドはあっというまに崩壊していった。

英語ができないわたしが英語の世界で暮らしていく。できることなんて、本当にこれっぽっちだった。だから英語以外のところでなるべくマイナスにならないように心がけた。ネイティブと対等に渡り合える英語力はないけれど、わたしはこんなことをやっている、こんな部分が面白いんだぞ、と。

実はこれはアメリカ生活において、意外と核心をつく考え方だと知ったのはずっと後からだった。

例えば、日本だったら「〇〇で働いています」という自己紹介のときに一流企業の名前を出すと、それだけで「おっ、なんかすごそう!」と思ってもらえる可能性が高い。

でも、アメリカの場合は「で、あなたは何ができるの?」と言った感じだ。あくまでも外側じゃなくて中身。大切なのは仕事の内容であり、自主的な取り組みや成果であり、会社の器を借りない自分自身。

プライベートでも同様のことが言える。

英語力がいくらあったって、英語が話せる「だけ」では人に好かれない。話が面白いひとはもれなく人生経験が豊かなひとで、思考を深められるひとで、それは日本でもアメリカでも同じだった。

多少、英語が不自由でも自分がある人間は魅力的に映る。そのことに気付いてからはいくぶんか言語習得に関する肩の荷が下りた。

ただ一方で、結局は人間力であるという事実に気付いたときに、今度は別の部分で悩み始める。

「自分がどういう人間であるか」

どうしてだろう、子育て中心の日々を過ごしていると、途端にこの辺りが心もとなくなるのは。

アメリカに来たばかりの独身時代は、割とその生き方をさらけ出すだけで面白がってもらえたように思う。何にも持たず身一つで異国にやってきて少しずつバージョンアップしていく日本人。

今はすっかり生活になってしまった。それに、あんなこともやっていた、こんなこともやっていた、経歴自体は仕事なりプライベートなり色々あるのに、それは全部「過去のこと」で、いまの自分には何も残っていないように感じてしまう。

妻であること、母であること、と自分の人生を両立させるのは言うほど簡単じゃない。

先日も女友達3人でお茶をしていたとき、わたしだけ働いていなくて何だか「引け目」を感じてしまった。なんでこんなふうに思うんだと戸惑いや憤りすら感じる。子育てを楽しんでいる自分を誇りに思っていないのか?

でも、こういう無意味は引け目は、いろんなバリエーションでいろんな人が感じているんだろうな。

いつも自分に価値付けをしようともがいている気がする。

20代の頃からは考えられないほどいろいろなものを手にしているのに、どうしたって欲深い。なんだか今のわたしってこのままで充分ハッピーじゃない?と前向きに輝く日もあれば、妻や母だけの業務を煮詰めた日々がいつまで続くのか?と頭を抱える日もある。

「ありのままで」「わたしらしく」を愛する。

それができれば苦労しないわ、と途方に暮れる夜もあるんだということを、とりあえず記録しておく(つまりまとまらなかった)。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。これからも仲良くしてもらえると嬉しいです。