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作品がアートになるためには・・・

大学の頃、アートのクラスをいくつか取っていた。専攻の授業でアカデミックな英語を読んだり書いたりすることが多く、人よりも少々理解読解するのに時間が掛かる私は焦っていた。アートのクラスはそんなちょいパニックに陥りかけていた脳みそを中和させるのに丁度良いオアシス的な時間だった。

アクリル板にインクで絵を描いて印刷するプリンティングのクラスではブラシ使いが素晴らしいと絶賛され、作品が学長室に飾られたこともある。

エッヘン。すごいでしょ。

取り柄がほとんどない私の自慢のひとつとして、もう何十年も前のことなのに今でも誇らしく思っている。


初めてのアートクラス
そんな私がアメリカの大学で初めて選択したアートのクラスは『立体アート』だった。紙や木材や針金などを使って好きなものを作って良いという、小学校の工作の時間のような楽しいクラス。

ネットもパソコンも一般に普及していない時代。論文はワープロで書いていた時代。『立体アート』って言ったって、パソコンも3Dプリンターも使わない超アナログなもの。

みんなでおしゃべりしたり、時には真剣に黙々と自分の世界に浸ったりしてハサミやペンチや糊やテープを手に作業を進めた。

知らない単語を辞書で引きながら必死で課題と向き合う専攻のクラスと、思いのままに楽しく過ごすアートのクラス。そうやって脳内で緩急をつけながら学期末までなんとか各授業、ひとつもドロップアウトすることなくやっていけた。


学期末のプレゼンテーション
専攻しているクラスでは論文やプレゼンテーションの準備が佳境に入る学期末。いつもの如く癒しモードで作品を作りながら寛いでいるところへ担当教授が柔和な笑顔でやって来て、いつも通り世間話をするのかと思いきや唐突に、学期末のプレゼンテーションの順番はどうする?と言い出した。

はて?プレゼンテーション?順番?なぬ?

作品を仕上げて終わりだと思っていた私は能天気なおバカさんだ。いくらなんでも大学の授業なんだから、作りました、はい、おしまい、って訳にはいかないことくらい予測出来たはず。

アートのクラスではそれぞれが制作した作品を学期末に発表しなければならない。

こんなん作りましたけど~的な数秒で完了するような簡易的な作品紹介ではなく、作品の説明と制作した経緯や意図等々、とにかくありったけの理由やバックグラウンドを解説説明しなければならないのだ。

アートの評価は作品の出来栄えや完成度だけでなく、制作過程や最終プレゼンで語る内容によって総合的に決まるのだとその時初めて知った。

癒しの時間だとか言って、ポヤポヤとした気持ちで女性の体型を模した紙人形を木枠の中央に吊り下げたものなんか作っちゃった私は、これをどう説明したら良いのか、むむむと考えあぐねることになる。

紙人形が思いのほか上手く出来たことで調子に乗って、等身大の女性の胴体に目の細かい金網を巻き付けたものまで作っちゃったもんだから更に悩むことに。調子に乗って2つも作るんじゃなかった。。。

とりあえず木枠の人形は『空飛ぶ人間』ということにして、後付けの解説をつらつらと並べ立てた。

頭部手先足先のない不完全な人体人形が示すものは何か、とか。木枠の内側と外側の世界の違い、とか。そんな風な話を延々とした気がする。詳細は忘却の彼方、だけど教授やクラスメイトのみんなが私の話を頷きながら真剣に聞いてくれたことだけはしっかりと記憶に残っている。

胴体の方は巻き付けた金網がまるで衣がたなびくような形になっていたので、木枠の作品から派生したものだということにして、『空飛ぶ人間』をズームアップして臨場感を持たせたとかなんとか言ったような言わなかったような。

喋っていてもところどころで無理矢理な感じがして、なんでやねん!とか、どゆこと?って自分にツッコミを入れながらのプレゼンテーション。顔は引きつった笑顔で声は震えていた。

無事プレゼンが終わると緊張が緩み、こんな私の適当な作り話に耳を傾け、質問までしてくれたクラスメイトや教授に申し訳ない気持ちと感謝でいっぱいになり、涙が溢れそうになった。

あぁ、やっちまった。私って嘘つきだ。心にもない作り話をしてしまった。

真剣にアートと向き合うクラスメイトに対する後ろめたい気持ちを引きずったまま、そうやって私の初めてのアートのクラスは終了した。

ところがそんな私の悔恨の念を打ち破るように、学期末の評価はA。アートを専攻する学生よりも甘めの評価になっているのは目に見えて明らかだ。重ね重ね、恐縮するしかなかった。


アート(芸術)ってなんだろう?
アートの評価は難しい。技術的に精巧で上手く仕上がっているとしてもそれがアート(芸術)として評価されるかどうかは別問題。

特に現代アートは、こんなん子供の頃によう描いたわ、と思うような稚拙な絵でも堂々と美術館に展示されている。

幼稚園の頃に描いた絵と、有名美術館に飾られる数億円の絵。キャンバスのサイズ以外の違いはなにか?若い頃の私はよくそんなことを考えていた。

大学のアートのクラスで思いかけず高評価をもらって気付いたのは、作品単体で評価されるのではなく、その作品を制作するに至ったバックグラウンドありきの評価だということ。

もちろん作品を見た時のインパクトは大事だ。バランスとか配色とか、人の目に飛び込んだ時に気に入られる印象がなくてはならない。

同時に、誰がどんな思いで作ったのかとか、作者の稀有な経歴も重要な評価のポイントになる。

大学のアートのクラスで私の作品の評価が良かったのは、日本からノコノコとやってきた小娘がニコニコと楽しそうに紙人形を作る姿が、教授の心に何かちょっとした興味や刺激を与えたからなのかもしれない。


アーティストの素質
絵が上手いとか手先が器用とか、センスがあるとか突拍子もない思いつきがあるとか、そんなことだけではアーティストにはなれない。

高く評価してくれる誰かがいなければ作品に価値は付かないし、その作品の価値を共有するファンがいなければアーティストとしては認められない。

美術館に展示されている数億円の絵は、世界の誰もが認めるアーティストの作品なのだ。それが例え近所の幼稚園児が描いた絵と酷似していたとしても、世間の評価をたくさん持っている方が真のアーティストとなる。

園児をアーティストだと認めるのは親や親せきなどの身内だけで、美術館級のアーティストは億単位の人に認められている。

有名人が描く絵がアートとして価値があるのも作品の完成度だけでなく、作者である有名人本人の経歴や知名度がプラスされてのことだ。

公開し共有された作者個人のライフスタイルこそがアートなのだ。

作者のライフスタイルに価値が付かなければ作品にも価値は付かない。

絵が上手かったり手先が器用な人はデザイナーにはなれるかもしれないが、アーティストにはなかなかなれない。逆に絵が下手で不器用でも、生き様に価値があると世間に見出された人はアーティストになれる素質を持っている。

芸術の世界とはそういうものであり、そんな芸術世界に身を投じて生計を立てて生きて行こうとすることは、世間の大多数に好かれたり認められたりするように努力をして生きなければならないということになる。

そりゃあちょっと、息苦しくないですか?

私はどちらかというと、万人に認められなくていいから自由に好きなことをして生きて行きたい。

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