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虐待サバイバーです。トラウマケア約一年半にて完了。複雑性PTSD、解離性同一性障害のこ…

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虐待サバイバーです。トラウマケア約一年半にて完了。複雑性PTSD、解離性同一性障害のこと、心理療法のメモ、その他心に浮かんだあれこれを書いてます。日英バイリンガルの、ひとりで身を立ててるひとです。

最近の記事

自分の中の景色

私、キース・ジャレットがすごく好きなんです。 名盤と呼ばれる、ケルンでのコンサートを収めたアルバムがあるんですが。夜空が見えたり、花びらがひらひら舞ったり、たくさんの羽が空を飛んだりします。 自分自身と繋がれるようになってから、心の核の部分に、泉というか湖のような場所を認識するようになりました。 音や視覚で、「好き」だと感じるものは、その場所の景色と合っていて、心地の良い風が吹きます。 私の好きな絵、ジョン・エヴァレット・ミレイによる『霧にぬれたハリエニシダ』は、ちょう

    • 抗う力がもう無いところから始まる

      歳をとると、無理がきかなくなるそうです。 中年期になって急に鬱を発症したりというのも、そういう理由だったりすることがあるみたいです。 私は現在、アラフィフと呼ばれる年齢になりまして、もう色々耐えられなくなりました。 これが加齢によるものなのか、トラウマケアで自分の痛みや不調を感じられるようになったからなのか。きっと両方なのでしょう。 心も身体も正直になりました。先日の、頼まれて出した写真展での出来事は、すごくストレスだったみたいで、謎の倦怠感からの、ギックリ腰ならぬギック

      • 怒りの解像度をあげる作業

        つらつらと書きますが、主に二点。 ・怒りを拡大していくと、その中に、寂しさや悲しみや悔しさの粒子があること。 ・怒りの矛先の反対側には、だいたい自分がいること。 今週は、怒りの感情が、いつもより多かった気がします。きっかけはいくつかありましたが、一番は写真のことです。 ある公共の場所で、大きなグループ展がありまして。頼まれて出展することになりました。 依頼してきた方は、前に見せた私の人物写真(スナップ)をいたく気に入り、ベタ褒めしていました。 私は今回は、静謐な感じの

        • 自分のことを話せるようになった&人の内心が過度に気にならなくなった

          気付けば、自分のネガティブなことを、ごくカジュアルに、人に伝えることができるようになった。同時進行で、それについて人が私をどう見るか、気に病まなくなった。 私はいつも私の味方で、安全なところに置いてくれるという、安定した安心感なのだと思う。 例えば、写真関係でお世話になっている方の奥様。私を何故か気に入っていて、たびたびランチをしていた。ご主人が中座された際、何かの話の流れで、その奥様が、「外から見てちゃんとしていても、家で家族に暴力を振るう人もいるじゃない?」と言うので

        自分の中の景色

        マガジン

        • 多重「人格」のこと(まとめ)
          15本

        記事

          愛されなくても別に

          ……というタイトルの本、ありましたよね。 機能不全家族に育った私は、愛されることについて、常に飢餓状態でした。 トラウマケアにかかる以前、満たされない寂しさはずっとあって、その寂しさを、間違ったやり方、とてもそれでは埋まらないようなやり方で、埋めようとしていました。 原家族に愛されてこなかった私は、そんな人達にすがることで、どうにか愛されようと、身を削って尽力していました。 そんな相手の為に、自分を偽り、捻じ曲げ、苦しんでいた時は、寂しさと真っ向から向き合わずに済んだし

          愛されなくても別に

          絶望感の中身について再び

          必要な気がするので、久しぶりに、少し物騒なことを書きます。 機能不全家族の話なので、心配な方は読まないことをおすすめします。 小学生時代、家族から死の方へ追いやられた記憶が、二つほどあります。 一つめは、兄です。それまでも、父や兄から日常的に暴力を受けていました。身体的、心理的、両方です。 「死ね」だったり、「お前さえいなければ」と言われるのは日常でしたが、 それでも、視覚的に死を促されるのを見た時は、ショックで動揺し、目の前のことを理解するのに、長い年月が必要となりまし

          絶望感の中身について再び

          牛腸茂雄と心理の本

          写真の公募展に入賞していちばん良いことといえば、審査員の方から講評を頂くことです。 なので、好きもしくは尊敬する写真家が審査員をする賞にだけ応募します。 後日、別のシリーズ写真(ラフ)を見ていただける機会にも恵まれました。 その際同席した別の写真家の方に言われた言葉。 「牛腸茂雄のような、力強いイメージ。」 すこい洞察力だと思いました。 その写真には、高層ビルを背景に、芝生の上に座り、こっちをじっと見ている小学生くらいの男の子が写っています。 不安とも苛立ちとも諦めともと

          牛腸茂雄と心理の本

          何よりも楽しみをくりかえすことに

          noteの過去記事を読み返すと、忘れていた大切なことを思い出したりします。 なので、書くほどのことじゃないと今思ったことも、時々書いてみると良いのかもしれません。 今年はもうほぼ半分過ぎました。 今年の前半は、それまでの人生とは似ても似つかないものでした。 まず、なんとなく気が向いて応募した写真展で、賞をいただきました。 複数枚持っていたうちの一枚だけを提出しようとしたところ、「えっすごいプリントじゃん、こっちも出しなよ」とうながされるまま出したもう一枚が、入賞しました。

          何よりも楽しみをくりかえすことに

          夢の話

          SNSがなんだかしっくりこなくて、ずいぶんと時間があいてしまいましたが、先日みた夢が重要な気がしたので、久しぶりに書いてみます。 == 飛行機だった。 行き先は分からないけれど、ヨーロッパ方面だと感じた。 それは単純に、フライトがすでに10時間以上に及んでいたから。 機体は急に、下降を始めた。 ピーター・シスの絵に出てくるような一律で平面的な山脈沿いを、沿って滑るように行く。山肌はかなり近い。山脈には霧。 しばらくすると更に下降、機体は自動車道を走る。ふだん猫だけが通

          心と形について、考えた

          若い時分の私は、形式が嫌いだった。 始まりは、形ばかりまともに見せて、その内実は正反対ということを軽蔑していて、 それが拗れて、形式をきちんとすることに対して、反抗的になったのだった。 マナーだったり、TPOに合わせた立ち居振る舞いや服装を、馬鹿馬鹿しいと感じていた。 そこに心があるなら、形なんて問題じゃないという言い分だった。 もちろん原因は、私の機能不全家族。 スーツを着て立派な社会人みたいな顔をした父親は、家では、気分次第で言う事が変わり、他責的で、女子供を殴りつけ

          心と形について、考えた

          気付けば年末なので、今年を振り返る

          いつもだとこの時期は、いろいろ思い出すことがあって、落ち込みがちでしたが、今年はとても安定しています。 今年は、自分都合で決断する、というごく当たり前なことが、板についた年でした。 自分の感情を認識するというのは、辛い記憶の多い私には、かなりしんどい作業ではありましたが、怒ったり笑ったり泣いたりしながらのそんな工程を経て、より自分を知ったり、自分への信頼を深めたりすることができました。 (私にとって)良い意味で、「諦念」が実践できたのも、今年のことでした。 過剰な執念と努力

          気付けば年末なので、今年を振り返る

          内なる虐待者(家族)とは、もう同調しない

          トラウマケアの効果で、フラッシュバックはなくなりました。 フラッシュバックは、単に思い出すといった理解をされる事が多いと聞きます。 実際には、その時の状況に引きずり込まれる、といった感覚です。 今でも時折、被虐体験の感覚は蘇ってきます。ひとつ変わったことは、過去の体験の渦中に引きずり込まれる手前の崖に、留まることができていることです。 フラッシュバックよりはかなり楽ですが、心が恐怖で震え、手が同じように少し震え、力が入りにくくなります。 臨床心理士の先生が言うには、これは、

          内なる虐待者(家族)とは、もう同調しない

          絶望からの離れ方を、学んでいる

          以前にも何度か書きましたが、快復の過程は、螺旋階段のようだと思います。 何度も、家で虐げられた記憶に戻ります。 トラウマ治療前は、いつも同じ絶望感の中にいました。 家族と連絡を断ち、治療が進むにつれ、希望や楽しみを感じる時間ができ、その間は家族の事を思うことがなくなりましたが、それでもまた、ふとした時、同じ虐待の記憶が戻ります。反応は変わって、絶望感の代わりに、彼らに対する怒りだったり、混乱が生じました。 怒り尽くし、彼らへの期待がなくなり諦念の域に達すると、今度は、彼らの

          絶望からの離れ方を、学んでいる

          (メモ/雑談)不思議だった日のこと

          ある北関東から南東北の土地を、二日ほど、目的なく放浪していたのですが。いつもならしないようなうっかりで、降りたかった駅を乗り越してしまいました。 駅と駅の間の距離がひたすら長く、おまけに乗っていたのが特急なものだから、次に停車した駅は、降りるつもりでいた駅から、ずいぶん離れたところでした。 時刻表によると、次の逆側の電車は、一時間後。 途方に暮れながら、降りた駅のあたりをトボトボ歩いていると、『◯◯電機』という看板。◯◯の部分は、昔、ごく短い期間会っていた男性の苗字。 あれ

          (メモ/雑談)不思議だった日のこと

          心の深部に、触れたのかもしれない件

          自他境界線というものが、発達してきたみたいです。他人のネガティブな感情が侵入してくることがなくなり、誰かの代わりに役割をこなそうとする姿勢がなくなりつつあります。 同時に起きた変化、というか、以前より更に深化したことがあって。 それは、絵画や音楽に共鳴して、それをきっかけに、深いところに隠れていた思いが、水門が開いた時のように、強く吹き出してくることです。 以前からこの傾向はありましたが、近頃では、ずっと激しく、わかりやすい形で、それが現れるようになりました。 他人に乗っ取

          心の深部に、触れたのかもしれない件

          まだよく整理がつかない、抽象的な話

          ここ数日、不思議なことが続いて、なんだか導かれているような気分になっていた。 霊感もなければ、霊的なことをあまり信じていない私でも、理解できないことに出会うと、何かしら大きなもののせいにして納得する方が簡単で、ついそうしたくなる事がある。 似たような事だと、過去に解離して怒りが暴発した時。「悪霊に取り憑かれたのかも」と、うっすら思い付き、つい検索してしまったことがあった。 悪霊なら不可抗力だし、理解できない事象は、そこで思考停止した方が、楽で合理的だった。 ミレニアムあた

          まだよく整理がつかない、抽象的な話