怒りの解像度をあげる作業

つらつらと書きますが、主に二点。

・怒りを拡大していくと、その中に、寂しさや悲しみや悔しさの粒子があること。

・怒りの矛先の反対側には、だいたい自分がいること。


今週は、怒りの感情が、いつもより多かった気がします。きっかけはいくつかありましたが、一番は写真のことです。

ある公共の場所で、大きなグループ展がありまして。頼まれて出展することになりました。
依頼してきた方は、前に見せた私の人物写真(スナップ)をいたく気に入り、ベタ褒めしていました。
私は今回は、静謐な感じの写真が気分だったので、静かな霧のかかる森の写真を持って行きました。
それを見るや否や、その方の顔には、「コレジャナイ……」という表情が浮かんでいました。その日見に来た大写真家(ドキュメンタリー系の方です)、私のスナップを大絶賛していた方ですが、彼も「うーん、甘いんだよね」と惜しそうに言っていました。
私はその写真が気に入っているので、たいして気にせず、その日を終えました。

その翌日、展示への参加を依頼した方から、ショートメッセージが届きました。その内容は、、「綺麗にまとめるのではなく、もっと大胆に、荒々しく!写真の〇〇先生(例の大先生)も、上手なことでかえって苦労されたそうです。頑張ってください。」と。

ちょっとどころかかなりカチンときまして。
荒々しくしたければそうするし、静謐なものを求めたい時はそうするし、つまり私の作品は私の好きにする。余計なお世話!と思いました。
なので返信は、「あの写真を出したい気分だったので、まあ仕方ないです。先生の好みとは違うと初めからわかっていましたけど、私あの写真が好きなんですよね。」

すると来た返信は、「〇〇先生の『⬜︎⬜︎』という写真集を見てみてください。misakiさんの写真にそっくりですから。」と。
よりによって、大嫌いな写真集でした。望遠レンズやマクロレンズで、野生の生物などを、ほっこりユーモラスな感じで撮った写真集です。私はまず、望遠レンズで撮った写真が嫌いです。ほっこり系の仲間に入れられたのも、腹が立ちました。
なので、この写真集はまったく好みではないことを伝え、「好みの問題なので、ご容赦ください。世間的には、良作なのだと思います。」と書いた。

その後来た返信は、要約すると、「先生のためじゃなく、自分のために作品を作り続けてください。」という内容でした。最初のものと矛盾するけれど、ちゃんと主張して良かったな、と思いました。

(以前の私なら、アドバイスにただ感謝し、実際にとんちんかんなアドバイス通りの荒々しく見える作風にしてみせて、それから自己嫌悪で死にたくなったりしてた可能性すらあります)

それでもそれからも腹は立っていたので、その怒りと向き合うことにしました。

「私の寂しい森の写真は、人生の外側に居たことのない彼らには、理解できないんだ。」
と、怒りは言います。その言葉に含まれるのは、自分の境遇に対する悔しさ、人生の内側で積み上げて来られた彼らを羨ましく思う気持ち、こんな寂しい写真が撮れないような満ち足りた人生が欲しかった気持ち。

怒り、悔しさ、悲しみで一杯なのに、おかしく思われたくなくて、人目に触れる前にオブラートに包んで、優しく無害なものに還元していたんじゃないか、という疑問。私の言動につきまとう欺瞞。ほっこり系に見間違われるのは、これが原因なんじゃないか、と。そこに心当たりがあるから、こんなに憤慨するんじゃないかと。

(私の尊敬する写真家は、愛想笑いはしない。私は、する。つまりはそういうこと。)

トラウマ治療以前は、怒りは悪いものとして、押さえつけたり通り過ぎるのを待ったりしていました。本当は、向き合えなかった、向き合える自分という土台ができていなかったからだと、今ではわかります。
怒りを感じた時は、自分のことをより理解できるチャンスなので、もっとじっくり向き合って、もっと自分になって行きたい、と改めて思った次第です。

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