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日々の喧騒、それは生活のにおいのひとつだ

もはや定番となったお向かいのおうちの夫婦喧嘩。風向きによっては熟年夫婦の怒鳴り声が聞こえてくる。大体は奥さんが優勢でけっこう辛辣な言葉も使っている。言い返していると思われる旦那さんの方の声はやや小さく、ある程度配慮している印象だ。

これが一日三回以上、毎日ある。
今日も元気ということでいいのだろうか。

あんなに大声で捲し立てることができたら、果たして気持ちはすっきりするんだろうかと考えてみる。私の場合は相手に対しての罪悪感や自己嫌悪が出て来てしまう気がした。


「お母さん、またやってるよ」
「これは喧嘩じゃないと思う」
「えっ?」
「買い物について話しているだけ」

私の言葉に淡々と返してくる母に思わずきょとんとしてしまう。私には怒鳴っているだけに聞こえていたのだが、話をよく聞いてみると怒鳴っていなくても普段の声が大きいみたいだと母は言う。

「どうして喧嘩じゃないってわかるの?」
「さっき洗濯物を干しに出た時にちょっと聞こえてきて」
「なるほど」

それでも私にはやっぱり奥さんが喧嘩を吹っかけているようにしか聞こえない。母の方がこの夫婦喧嘩に出くわす機会が多いからわかる部分もあるのかもしれない。そんなことを考えたりした。


からんからんと音を立てて麦茶に入った氷をかき回す。本格的な夏が来る少し手前、とある土日の会話達。もう梅雨に入っているなんて嘘じゃないだろうか。朝は雲一つないと思っていた青空に、いつからか複数の雲が現れてすっと流れていく。

梅雨なのに未だ雨の降る気配はない。降ったとしても災害級の大雨だったりするので、すっかり極端な天候になってしまっている。ゲリラ豪雨が当たり前のようになったのは何年くらい前からだったか。さっきまで晴れていた空が一気に暗くなり、ざっと勢いよく雨が降る。



それにしても、と私は声のトーンを落として呟いた。

「毎日あんなに怒っていたら、いつか脳の病気か何かで倒れてしまいそうで心配だよね」
「そうなのよね。高血圧にもなってしまいそうだし」

二人でばりばりとせんべいをかじりながらそんな話をしていると、今度は奥さんの「バカ―!」という声が聞こえてきた。かなり頭にきている様子だ。物を投げたりはしないのでまだましではあるものの、もし何かあったらと考えずにはいられない。

夫婦喧嘩は犬も食わぬという言葉もあるけど、少しはどうにかならないものかと思わずため息をつく。母は苦笑した。

「奥さんなりにイライラしてしまう理由もあるんでしょうね」


せんべいの空袋と湯呑を持って立ち上がり、シンクへ向かった母の背中を見ていた私はお向かいのおうちへと視線を向けてみた。そこは既に先程とは違い、静寂が訪れている。そんなことを思っていると早速ちょっとおかしな声が聞こえてきた。何かと思い、耳を澄ます。まるでえずいているかのような声に聞こえたのだ。母を呼んだ。

「何か変な声がしたんだけど、大丈夫かな?」
「ああ、くしゃみしてるんでしょ」

何でもない顔で母は言い、私はたまらず笑い始めた。心配からの落差がものすごかった。きっとお向かいのおうちには逆に我が家の声が聞こえてもいるんだろう。楽しそうな家庭だと思われているのか、はたまたいつも馬鹿なことで笑っているように思われているのか…。真相は闇の中である。

夕日に変わり始めた太陽の光を少し眺めた後、私はゆっくりとカーテンを閉めた。明日は激しい天候にならないといいなと思いながら。

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