やみをなぞるー村上春樹『猫を棄てる』タイトル考
村上春樹氏の新著『猫を棄てる』のタイトルの意味について考えていくのが本稿の目的である。
『猫を棄てる』には冒頭に棄てられたが帰ってきた猫と、終わりの方に松の木に登ったまま帰ってこなかった猫の思い出が語られる。後者の猫の描写は、著者の別の作品、『スプートニクの恋人』の中にも描かれる。
このことはやはり、伏線であり、それに気づかれることが、おそらくは著者からの期待でもあったと思われる。
『スプートニクの恋人』を読もうとするとき、著者も翻訳しているトルーマン・カポーティの小説『ティファニーで朝食を』という作品にも触れる必要がある。
『スプートニクの恋人』はあきらかに『ティファニーで朝食を』を受けて書かれている作品であるからだ。そして、『ティファニーで朝食を』にも猫が出てくる、そこには猫が捨てられる場面も出てくる。
ここからは、ネタバレを含むところが多くある。『猫を棄てる』を未読の方、そして二作品についても未読の方は読まない方が良いかもしれない。
二つの作品は同じ主題が描かれている。個人的な感覚で例えるならば、夜に街灯のない暗い道を一人で歩いている時に夜の闇の黒が、自分の心の中に入り込んで、ここではない別のどこかへ連れて行ってしまうのではないかと思う心もとなさ。そういう闇と心の関係ではないかと考える。
「猫を棄てる」の意味を考えるためには、一度、両作品を比較しながら、この闇の上澄みをなぞっていく必要がある。
『スプートニクの恋人』は『ティファニーで朝食を』の設定や構造をバラバラにして取り込んで書かれている。
まず、『ティファニーで朝食を』と似た設定が出てくるところをいくつか挙げたい。
ア. すみれ(ヒロイン)は夜中や明け方に「ぼく」(主人公)に電話をかけてくる
(『ティファニーで朝食を』ではホリー(ヒロイン)が夜中や明け方に「ぼく」(主人公)の部屋のベルを鳴らす。つまり、関わる時間帯とヒロインが主人公の安眠を妨げる、そして主人公はヒロインのそれにある種、喜んで付き合っているという点も似ている。)
イ. 「ぼく」の一人称小説で、「ぼく」の人物像は「平凡」とか「凡庸」とされている(『ティファニーで朝食を』の翻訳者あとがきで村上氏は小説版と映画版の違いとして小説版の主人公の設定の平凡さについて指摘している。)
ウ. すみれは一般的な美人ではないが「ぼく」はすみれのことが好きである
(ホリーもサングラスを取るとそんなに美人ではないが「ぼく」はホリーのことが好きである。鼻など顔の描写の仕方が似ている。好きであるが、友達でしかないというところも似ている。ただし、すみれは「ぼく」にしかもてないがホリーは沢山の男性を魅了する。)
エ. すみれの「旅行中」の留守録
(ホリーは郵便受けに「旅行中」の名刺。この描写があることで、『ティファニーで朝食を』が意識されていることは決定的になる。)
次に、設定を変更して取り込まれているところをいくつか取り上げたい。
a. ホリーにとってのティファニー
→すみれにとっての「ぼく」
b. 小説家になろうとする「ぼく」
→小説家になろうとするのは、すみれ
c. 「ぼく」には友達があまりいないが、ホリーには「ぼく」以外にも沢山の友達がいる
→「ぼく」にもすみれにも友達はお互いしかいない
d. 「ぼく」はホリーに恋していても性的対象としては明示していない
→「ぼく」はすみれを性的対象と見ることから逃れられない
e. 「ぼく」は遠くに行ったホリーを追いかけない
→「ぼく」は遠くに行ったすみれを追いかける
f. 「ぼく」はホリーを思い出にしてしまえる
→「ぼく」はすみれを思い出にしてしまえない
そして、『猫を棄てる』の二つの猫の思い出と、両作品の猫の場面について考えてみる。
最初に、『スプートニクの恋人』ですみれの思い出として語られる、帰ってこなかった猫の話から考えたい。
この猫は、「何かに取り憑かれたみたいに」「木の根もとをぐるぐると走ってまわり」、「松の木の幹を一気に駆け上がった」。この猫は、帰ってこなかった猫であり、自分で死を選んで消えてしまった猫として解せる。そして、それはすみれ自身であることを暗示させる。
上述のaの意味とは、個人的な感覚を挙げれば、それは、先ほど例に出した闇に持っていいかれそうな心を、寸でのところで照らす月明かりのようなものだと考える。暗闇の中を歩くという不安は、自分の異質性を意識しながら自分の身の落ち着く場所を探す道程の喩(たとえ)としたい。
bはすみれの異質性として描かれ、ミュウに恋することはさらにその重しとなる。また、イのように描きながらも、dは強調された「ぼく」の異質性であり、だからこそc、e、fであり、すみれを失った「ぼく」自身もこの猫となる。
続いて、『ティファニーで朝食を』でホリーが遠くに行く前に猫を捨てる場面について考えてみたい。
ホリーはcであったが、ホリーは「ぼく」や他の人に直接的な助けを求めたりしない。だからホリーにとって「私たちはお互いのものだった」と思えるのは捨てられていたところを拾って飼ったこの猫だけだった。
ホリーは猫を捨ててから、後悔する。引き返すが取り戻すことはできない。ホリーは「ぼく」に言う。
「何かを捨てちまってから、それが自分にとってなくてはならないものだったとわかるんだ。」
「ぼく」はこの猫を必ず見つけると約束している。こちらの猫は誰かに拾われて幸せに暮らしている描写があり、救いがある。この猫もホリー自身を暗示させる。
この『ティファニーで朝食を』の場面がタイトルに関わっていると考える。
父親を語る本のタイトルとして、著者はこのタイトルを選んだ。著者は『猫を棄てる』の中で長い期間、父親とは疎遠だったと書いていた。そこには、ホリーがこの猫を捨てたときのような、著者自身が父親を捨ててしまったという思いがあったのかもしれない。それは著者の長い間抱えていた、心の傷でもあったともとれるのではないか。
『スプートニクの恋人』の闇は深く、今の私にはとても検討しきれない。そのくらい、著者にとっての深い傷の投影とも言えるのかもしれない。
この文章について、ここに書かない方がいいのかもしれないと悩んだ。的外れな文章かもしれないという不安もある。それでも書かずにはいられなかったのは、先日 #猫を棄てる感想文 として「モーメント・ア・モーメント」を書いた時点では、『スプートニクの恋人』という作品を読む前であったため、この作品を読んでからタイトルの意味を汲んで書けなかったことに、残念な気持ちが起こったからである。
私は「ハルキスト」と呼んでいい優秀なファンでなく、一介の読者に過ぎない。著者の膨大な著作や翻訳作等の中から目が合った一部分に目を通し、考えさせられてという次元の一読者として、「猫を棄てる」というタイトルに収束された著者の思いを、掬い出すことを試みたに過ぎない。
広くとれば、これは、他者を理解しようという個人的な試みである。他者である、著者にしか分からない意図に迫りたいと考えた一つの結果である。
※参考・引用文献
・村上春樹『猫を棄てる 父親について語るとき』(文藝春秋)
・村上春樹『スプートニクの恋人』(講談社)
・トルーマン・カポーティ 村上春樹訳『ティファニーで朝食を』(新潮社)
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