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モーメント・ア・モーメント #猫を棄てる感想文

 著者は記憶の中の、棄てたはずの猫が戻っていた時の父親の表情の間(あわい)を、父親の幾重もの心の傷を語り出す契機としている。
 父親の村上千秋氏を「おそらくは不運としか言いようのない世代」と書き出した著者は、この感情のゆらめきに、父親の、次男であったために一度養子に出された「少年時代の心の傷」を重ねる。

 そして、父親の人生に暗い影を落とした戦争体験を、「忘れることのできない、そして実態を言葉ではうまく人に伝えることのできない重い体験」、「大きなしこり」、「残忍な光景」、「心に長いあいだ重くのしかかってきたもの」、「トラウマ」、「大きな心の痛み」、「切実な負い目」と言い換えながら、息子としてその足跡を辿る核に据えている。

 私は平成生まれで戦争を知らない。主に学生時代に学習として、戦争の傷跡の一部を見聞きしてきたに過ぎない。
 空襲展で見た空爆に遭った人の血に染まった衣服、若くてもずっと大人びているのに戦争で命を落とした青年の遺言の手紙、原爆ドームで見た熱に溶かされていく人々の人形など。想像するだけでも悲痛が感覚的にも精神的にも伝わってきて、正直に言うと、耳を塞ぎたくて目を背けたくてたまらないものを見聞きさせられているという感じが強かった。やっと近年、戦争を題材にした小説や体験の手記に目を向けられるようになった若輩者だ。

 この本に書かれた戦争についての記述を読んだとき、竜巻が周りのものを呑み込んで竜巻の一部にするように、戦争が一人の人間という個をないがしろにしてしまうものであり、その戦争により、自分の人生を奪われた記憶や竜巻として他人の幸せや命を奪わされた記憶を背負わされた個人の心が、いかに深く甚大に切り付けられてしまうものなのかということが真に迫ってきた。

 読む中でいつのまにか、息子としての著者が涙を流しながら父親を心の傷ごと抱きしめてあげているような情景が浮かんでいた。著者にとっても、戦争の記憶と向き合い続けてきた父親の、あえて多く語られなかった心の内側を紐解くような本作を著す作業は辛く苦しい道程であっただろうことを思った。

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 心の傷について改めて考えたとき、その傷と上手く距離を取れないと、例えば暴力や自傷のように傷の中にあるエネルギーが外側に暴走するという形になったり、ともすれば、拒否や拒絶のように向き合いたくないと心の内側を深く抉る形をとったりするのではないかと思ったりもした。

 だからこそ、千秋氏に俳句という救いがあって良かったと思った。
 どうにか生き延びて、俳句や文学を愛好しながらどうにかバランスを保ちながら、著者の父親であってくれて本当に良かったと思った。(私は、著者の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』などの著作や翻訳作や、たまたま目にした新聞の記事の中の言葉など、著者から生じた文章群に考えさせられたり励まされたりして、それらのおかげで長らえてきたところもある。)


 時の連なりの中の、有限の一時(いっとき)の中、結局、悲しくても、奇跡的と思えても、今ここでこんな風にしてこういう自分が生息しているという事実は変わらない。死という一つの終わりが待つのも変わらない。

 人は与えられる条件や環境に左右されるし、生きる時代とかそういうものが価値観に多大な影響を及ぼすことも間違いないだろう。でもそれが全てではなくて、どう切り取って見つめて過ごすか、どう立ち向かうか、そこにこそ、その人らしさがあると思う。

 時のはざまに浮かんでは消える、いや消えても浮かぶ、そんなきらめくような一瞬に出会ったときの胸の高鳴り、熱狂、共鳴、違和感? とにかく、動いた心の、自分にしか分からない気になる誰かと目が合ったような驚きにも似た感触に、力があると信じてみたい。

 苦しい時も逃げたい時もやっぱり自分と向き合うしかなくて、その先に何かがあって、それがまた偶然に何かと交差して、それがまた、気づかぬうちに見果てぬ何かを形づくるはじまりになっていくのかもしれない。

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