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航海を始める前に~出版に向けてnoteを再出発します

しばらくお休みしていたnoteですが、再出発します。自分の書いた本を新たにこの世界に生み出すために。

馬鹿にしていたアメブロに救われた

御無沙汰しています。
野原海明あらため、最近は「みあんご」という名前で、主にアメブロを更新していました。

私もともと、アメブロは馬鹿にしていたんですよね(ごめんなさい)。改行が多くてポエムみたいで、絵文字が多くてギャルみたいで、読み応えの無いブログばっかりだと思ってたから(ほんと、ごめんなさい)。

けれど、2018年。うつ病になった私には、もはや長い文章が読めなくなっていたんです。あれだけ活字中毒だったのに。ブラウザをびっちりと文字が埋め尽くしていると、もう全然頭に入ってこないの。

全然動けなくて畳の上に横たわったままで、スマホで唯一読めたのが、アメブロで綴られていた文章だったんです。そう、私が馬鹿にしていた、ポエムみたいな、絵文字がたくさん入ったブログ。でも、そこには「伝えよう」とする意志がしっかりと入っていて、もうボロボロだった私の内面に、大地を潤す雨のようにしみこんでいった。

ちょっとずつ私の中に文章が浸透し、ようやくまた、自分でも何か書けそうになってきた頃。私は、自分を潤してくれたようなブログを書いてみたいと思うようになっていました。心がいっぱいいっぱいのときでも、忙しくてワサワサしているときでも、すっと読めるようなもの。

そんな思いで書き始めたのがアメーバブログでした。そして、これがそのときの最初の記事。

いよいよ小説を書こうと思ったのだけど……

あれから2年が過ぎて、アメブロ記事はもうすぐ500本になろうとしています。更新を楽しみにしていてくださる方も増えてきました。すっと読める文章の書き方にも、慣れてきた気がします。

でもやっぱり、元気になってきた私は、がっつりみっちり活字を綴りたい。続けて来たライターの仕事もそろそろ卒業するから、「よしっ! いよいよ本腰を入れて小説を書くぞ!」と気合いを入れていたのだけど、あれ? 思っていたよりエンジンがかからない……。

そもそも今の私に、小説として書きたいことなんてあるんだろうか?

これまでの人生で何度も突き当たってきた壁に、再び突き当たってしまったのです。うーん、結局私は「小説家」と名乗りたいだけ? そもそも、なんで私は小説を書き始めたのだっけ?

……そうそう、十代の頃は、書きたい物語がいくらでも自分の中からあふれ出てきていた。まだウブで、どうしていいかわからなかった恋、とか。ブログなんてなかったから、高校のパソコンに入っていた一太郎で書いた。30分しかない昼休みをフルに使いたくて、早弁を済ませて、昼休みのチャイムと共に情報処理室にダッシュしていたんだ。

あのとき、どうして私はすらすらと物語を綴れていたのだろう? ……そう、おそらくは、他に表現する手段が無かったから。友達と恋バナをしていてもあんまり面白くなくて、もっと背伸びした世界で発信していたかったんだ。

「言えないこと」を書くためのツールだったんだ

社会人になった私は、「ブログに書けないようなこと」を小説に書くようになっていた。本当のことと虚構とを織り交ぜて。組織の一員だった私には、書きたいと思っていることを「本当のこと」として書くことができなかったんだ。

今はもう、他の誰かに遠慮する必要なんてなくなった。私の内面をちゃんとそのまま発信できるようになってきた。そうなってみると、私の中で「小説を書く」ということの意味が揺らぐ。まっすぐに言えないことを書くためのツールが、私にとっては小説だったんだ。

虚構を書くのは楽しい。でも、ときにむなしい。こんなこと書いていて、何の意味があるの? ……そう思いながらも、書くことを純粋に楽しめるのなら続けられる。でも、今はどうか? 私が書きたいのは、本当に小説なんだろうか?

私が「私」のクライアントになる

「ねーねー、私に書きたいことなんて、あるのかなぁ?」と自分に訊いてみる。「あるでしょ」と、私が答える。えっ、あるの? ほんとに? だとしたら、それは何?

まずは自分のことを、書きなさい。

それが、私の中から出て来た答えだった。私のこと? そんなの読みたい人、いるのかな。……ああ、でもそれが、「自分のために書いてあげたいこと」であることは確かだ。

ライターの仕事をやってきた。ライターとは、他人が言いたいことを代わりに文章としてまとめる仕事だと思っている。それはそれでとてもやりがいのある仕事だったけれど、今の私は「誰かの言いたいこと」ではなく、「私の書きたいこと」を書きたい。

そうか、今日から私自身が、ライターである私のクライアントになるんだね。

そういえば、「海明ちゃんはもはや生きざまが小説だよね」と言われたこともあった。だとしたら、私のことを綴るだけでそれが、なんらかの「小説」と呼べるものになるかもしれない。

最初に救うのは「自分」だ

「小説家になろう」と思っていた大学生の私は、「小説で誰かを救うんだ」と息巻いていた。かつて、自分が他の人の小説に救われたように。今は? いやいや、小説で誰かを救うだなんて、そんなおこがましいこと! と思ってる。私は、私のために文章を綴りたい。世界でたった一人の「私」を救うために。

それはきっと、光りになる。私のために灯した光りは、もしかすると誰かが人生を航海するときの道しるべになるかもしれない。

私の名前は「海明」。これは、中学生の私が自分に与えた名前。

人は誰しも、生涯という海を旅している。闇に包まれた夜も訪れるだろう。行く先の見えない嵐の日もあるに違いない。そんなを渡る人々の道しるべにあるかりを灯したい。

それを虚構の物語でやるつもりだったけれど、そんな必要もないかもしれない。私はまず、私の物語を語っていこう。そしてそれを、ちゃんとまとまったカタチにして出版したい。

そんな船旅に、新たに乗り出します。ともに帆を上げて、見守ってくれたらうれしいです。

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