マガジンのカバー画像

日々考えることのはなし

504
毎日考える何か、何かが引き金になり考える何かを綴ってみました
運営しているクリエイター

#エッセイ

顔に傷あるけしぼうず

この note にやって来て約二か月、ずっと自分の記憶の整理をしていたように思う。 母の半生は兄の出生を悔恨し続け、私には「それでいいのか、あなたの人生をそんなことだけで終わらせてしまっていいのか」との疑問を拭うことはなかった。 父はお気楽に見えた、当時高額な兄の治療費を稼ぐと長く海外に勤務し、すべては母に任せきりであった。 父もゼネコンにいた電気・機械のプロであった。 長い時間は人の記憶をぼやかし、曖昧にさせる。 それは良いこと、悪いことの両面を持ち合わせる。 そしてそれ

LL(ロングロング)長屋の日常、長屋での密かな楽しみ

LL長屋はループ線上を24時間止まることなく走り続ける回るアパートである。 今、このLL長屋では文通が流行っている。なんてことはない紙の手紙の文通が私のまわりで流行っているのだ。多くの人々は手書きなんてすることが無い。まだキーボードを打っていた頃が懐かしくなる。どこに居たって頭に浮かべた文章ばかりか想像した画像までもをスマコン(スマートコンタクト)※1(※は下記参照)が作り、目の前に映し出すのである。そして、必要とあらばそれを相手に送れば世界中どこに居ようと、「伝達」という

なんとも腑に落ちるような落ちない話

どうでもいいことをつらつらと考えることが好きである。小学校の頃によそ事を考えていてよく先生に叱られたことを思い出す。興味のないことを机に向かって話を聞き、考えたくないことを考えさせられるのが苦痛であった。だから、いつも考えることはよそ事だったのである。先生からしたら、迷惑な子どもだったに違いない。最近「LL長屋の日常」っていうループ線上を24時間止まることなく走り続ける回るアパートの話を書き始め、未来のLL長屋の日常に起こる当たり前の日常を考えていた。 その昔、JRがまだ国

顔に傷あるけし坊主(再掲)

先日、父のもと部下だった方と出会う機会があった。「ひでき君、親方に似てきたな~」と、言われなんとなくショックだった。 父が他界してもう13年過ぎる。父の他界から10年の間、母はグループホームで生活した。兄は今も愛知の障害者支援施設にいる。 父が死ぬまでの10年間、そしてそれからこれまでの13年間、都合で約四半世紀、家族の介護や看病が続いて来た。遠隔からの一人での介護・看病には無理があった。そんな状況を生み出した総責任者である父が好きではなかった。 母の半生は兄の出生を悔恨し

深夜の考えごと

また夢をみた。 ここでそう書き綴った記憶があるが、私は夢をあまり憶えていない。たぶん極端なショートスリーパーだからだと自分では思っている。ひょっとしたら夢を憶えている時は寝ていないのかと思ってしまったりする。身体をベッドに横たえて目を瞑っているのではあるがずっと考え事を続けている。日中も絶えず考えてはいるが、どうしても一つに集中することは出来ない。それはまだ現役で仕事を中心に生きていた頃、もっと極端だったように思う。 よく先輩に「人間ものを考えるのには7つが限度だ」と言われ

睡眠の秋

昨日はなんだか疲れていた。午後の早くない時間に家に帰り冷えた部屋でしばらく横になった。ウトウトとしていると設計事務所時代の大先輩から電話がかかり目が覚めた。西宮でマンションの計画があるから一緒に来て話を聞いてくれと言う。まだ眠かったのと、過去に西宮北口の地主にだまされたことがあり、もう二十年も西宮に足を踏み入れたことはない。そんな場所に入り込むには心身ともに調子を整えて「エイヤッ」と、飛び込まなければならない。そうでもしないと過去の負の圧力に負けてしまう。だから、丁重にお断り

LL(ロングロング)長屋の日常、車窓のある暮らし

ほんの少し先の未来の話である。 その頃人がまともに生活できる土地は都市部には残っていなかった。建築基準法が変わり上へ上へ伸び行くことが可能になった集合住宅にはさまざまな限界が生まれ、投機の対象物ではなくなってしまい、異国の所有者たちは長年の間にその所有権を手放していた。空室は増え、高齢者は増えて、巨大な建物にはいつも自分の部屋を忘れてしまった大人の迷子が彷徨うのであった。そしていつしか異臭も漂い近づく人もいなくなっていった。 私は端から高いところは苦手、田舎の故郷に帰れば、

八尾の青空と白い雲

多少は暑さはおさまったのかもしれない。汗をかきながらだが、酒の力を借りずとも朝まで熟睡できている。 金曜日の夕方、稽古に出かける途中である。 稽古に来る中学生の夏休みももう終わりなんだなと、八尾の青空と白い雲を見上げて駅に向かう。 大学時代の合宿に向けての稽古を思い出した。道場で軽く準備体操をして、練馬区の江古田から中野区の哲学堂公園まで走る。着いたらトレーニングである。腕立て、腹筋、なんでも百回単位だった。そしてまた走って大学の学生会館6階にあった道場に向かう。道着に着替

婆さんの靴下屋

夕方の通天閣を天王寺駅前のこの歩道橋から見やると履きそこなった一足の靴下をいつも思い出す。 子ども達は皆知っていた。そして、大人になると皆それを記憶に残すことは無いのである。 天王寺動物園の裏口から行かなければならないその靴下屋は通天閣に向かう途中にあるよく注意しなければ見落としてしまう古い店だった。ここら辺の子ども達は何も考えることなく皆、時期がやって来るとその靴下屋に行っていた。古い引き戸をガラガラと開けると懐かしい昔の匂いがする。その奥の古ぼけた照明に照らされて婆さん

人の怠惰におもうこと

両親ともに長男、長女ではなく、この『お盆』という期間を深く考えることは無くつい最近まで生きてきた。父が年末に亡くなり、母はお盆前にこの世を去った。するとなんとなく、決められた様式に囚われることの少ない私でさえ盆や正月を意識するようになった。ならば遠い祖先に思いを馳せ、とここに書きたいところだが、あったこともないご先祖様の供養はなんとなくピンとこない。直近の両親やいとこ達、まだ姿も声も憶えているそんな親族に思いを馳せながらこんな思いを引き継いでいったらいいんじゃないかと思うので

考えすぎて考えること

最近旧友から続けて連絡をもらった。これまで途絶えていた連絡ではあるが、電話で話せばそれまであった互いの諸々は関係なく銭湯で久々に会った友と話すように会話する。両親、家族を看取った話、自身の病気の話、親の思いのように進まぬ子どもの話など誰もが通る話題が多い。 そんな話を手紙にしたためるのは非常に難儀である。しかしながら手紙にするのにはこのパソコンに文字を並べる作業よりもずっと手間はかかり、頭を使わせてくれる。メールをダメだとは言わないが、メールやラインは苦手である。簡単に修正

京都西山大原野の日常に思う

内陸のしかも盆地の京都市内は暑い、いや熱さを感じる。 そんななかをNPO法人京都発・竹・環境ネット(通称NPO竹ネット)の手伝いに通っている。 どうもこの竹ネットの所在地である『大原野』という地名を出すと、まだ移り住んで日の浅くない京都在住者でも大原三千院の『大原』を思い浮かべるようである。 大原三千院は京都市左京区大原来迎院町というなんとも神々しい地名に位置するお寺である。 私が通う『大原野』は京都市南西部にある西京区に位置する。 京都の地名は分かりやすい。特に古い地名は

夏到来

ああ気がつけば夏が来た 正真正銘夏が来た 北を向いても南を見ても、東も西も夏だらけ スタンドカラーの白のシャツ 洗い晒しの綿のハーフパンツ 素足はスニーカーかサンダルで 夏といつも同化する 笑って太陽見上げれば あいつも笑って歌ってる だから一緒になればいい あいつはいつも独りきり そろそろ友を持ちたいと やっと気づいた腰抜けさ オレもいつも独りきり お前と同じ独りきり だからだからこの時だけさ お前をツレにしてやるぜ 無糖のチューハイ 無敵のオレ 無視はしないぜこ

日記のような、びぼーろくのような(2024.7.24 夏のある日の私の日常)

朝から放置竹林整備のNPO「京都竹ネット」の事務所に向かった。 大学合気道部同期のいる生命保険会社からノベルティグッズの注文が入り、その発注、請求の手続き、その他打合せがあっての久々の京都西山だった。 朝7時過ぎに阪急洛西口駅に降りた。すでに蒸すような暑さである。スマホをのぞくとすでに30度ある。 小学生の夏休み、母に「涼しい午前中に宿題をしなさい」と言われたのを懐かしく思い出す。コンビニで冷えたジャスミン茶を買い、阪急のレンタサイクルにまたがった。しばらく来ぬうちに西山の