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考えすぎて考えること

最近旧友から続けて連絡をもらった。これまで途絶えていた連絡ではあるが、電話で話せばそれまであった互いの諸々は関係なく銭湯で久々に会った友と話すように会話する。両親、家族を看取った話、自身の病気の話、親の思いのように進まぬ子どもの話など誰もが通る話題が多い。

そんな話を手紙にしたためるのは非常に難儀である。しかしながら手紙にするのにはこのパソコンに文字を並べる作業よりもずっと手間はかかり、頭を使わせてくれる。メールをダメだとは言わないが、メールやラインは苦手である。簡単に修正できてしまうのがよくないように思う。それまでに持った思いや、考え抜いたことを一気に手紙で文章にすることの方が男らしいような気もする。

パソコンやスマホに向かい考え抜いた文章だよと言う方もいるだろうが、やはり手書きよりも簡単だと思う。漢字は出るは予想変換も出てくる。もう一つ考えを深めることができないまま最終まで到達してしまうような気がするのである。事象の報告が目的ならばそれでいいだろう。でも自分の気持ちを伝えようと思うならばそれでいいのだろうかと思ってしまう。気持ちから離れた文章がパソコンやスマホの誘導のもとに作り上げられててしまうことも実際あるのではないだろうか。

こんなつまらぬことを考えながら夜は更けて、いろんなことを思い起こす。
どうもこの機械に操られての文章作成には人からの誤解を生む可能性をも持っているように思う。
人と会っても会わなくても肉声を聞き、相手の気持ちをおもんぱかっての会話や命を込めた文章は相手の心を射抜く力がある。
『愛の囁き』や『恋文』はあるが、ラブメールや愛のラインで今日びの若者の心には愛が芽生え、恋に落ち行くのであろうか。

中学の夏休みにラブレターを書いたことがある。インターネットなどもちろん存在しない時代である。何度も誤字や書き損じで端から書き直し、便箋を何枚も使い万年筆で書いた恋文である。夏休みの間その娘の顔を見れないことに耐えれなかったのである。その結果、何も無かった。返事もないままその娘は家の事情で急に転校が決まり二学期にはいなかったのである。そのまま二度と会うことは無かった。

今でも心に残る何かがある。それでもほんわか温かな血の通うような何かが残っている。それは私の思い過ごしでも構わないのである。メールやラインならば『〇』か『✕』かの返事はあったのかも知れない。でもそれではそこで終わってしまう。それを知らぬまま、半世紀もの間、恋心を忘れさせない力は手書きの手紙の力なのだと思う。

どうでもいいようなこんなことを、手書きならばここに書いていないかも知れない。なんだかそんなことを不思議に思うのである。暑い夏の日の私の部屋にはクーラーなど無く、汗をかいた手が便せんに貼り付いたことも憶えている。クーラーで涼しい部屋でパソコンに向かいこんな文章を書くこと自体がなんだかおかしいのである。

時間は流れているのではあるがいつまでも心に残ることには当たり前だが理由がある。そんなことを考え過ぎるほど考えながら今日一日が終わって行く。あと何日生きるのであろうか。年単位ではなく、最近それを日単位で考えるようになった。
京都大原野の竹ネットの事務所のお母さんがくれた切干大根とゴーヤは美味かった。知人からもらった小西酒造の『ひやしぼり』は美味かった。今日も平和に一日が終わっていく。

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