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なんとも腑に落ちるような落ちない話

どうでもいいことをつらつらと考えることが好きである。小学校の頃によそ事を考えていてよく先生に叱られたことを思い出す。興味のないことを机に向かって話を聞き、考えたくないことを考えさせられるのが苦痛であった。だから、いつも考えることはよそ事だったのである。先生からしたら、迷惑な子どもだったに違いない。最近「LL長屋の日常」っていうループ線上を24時間止まることなく走り続ける回るアパートの話を書き始め、未来のLL長屋の日常に起こる当たり前の日常を考えていた。

その昔、JRがまだ国鉄だった頃、動く車両から車掌が手を出してホームの端あたりの柱のようなところに、大きな丸い持ち手のようなものがついている小さなカバンのようなものを引っかけていたのを記憶に残している方はいらっしゃらないだろうか。何かの連絡の交信用のものなんだろうと子ども心に考えていた。デジタルの今の世にはそぐわないアナログのやり取りをしていたのではないかと昨日大阪環状線に乗って、そんなことを思い出し、ぼんやり考えていたのである。

近未来のLL長屋の日常において、いにしえの文通が流行れば面白いと思った。そしてその語源がふと気になった。今の世である、ネットで検索すれば「ふみを通わす」「文書で通信する」となんとも面白くない検索結果しか出てこなかった。しかし、そこらあたりを眺めていると「文通村」なる初めて目にする単語があった。その昔、少女漫画誌に文通相手を探すコーナーがあったが、そんなことをやっているサイトだったのである。個人情報は明かさずに手紙のやり取りを代行者がアナログで行うもののようであるが、SNSが無ければ成立しない文通であった。もちろん料金も必要である。いろんなことを考え、いろんなことを自由に発信できる時代になっているのである。

以前、本屋で立ち読みした「漂流郵便局」も同時に思い出した。届け先の分からない手紙を預かってくれる郵便局である。これにはなんだか感動を覚え、いつか瀬戸内海の粟島にあるこの郵便局に行ってみたいと思ったものだ。市の観光事業の一環となっているのであろうが、思いを込めてしたためたものの決して送れぬ手紙、決して送ってはならぬ手紙を預かってくれる郵便局にロマンを感じたのである。

最近、思うところがあって生活スタイルを変えた。もうそれほど長く生きることはないであろう。不快なストレスを切り、健全に生きるために必要なストレスだけを残した。それでなんだか生きやすくなったのである。そして、考えるは生きること。考えたことを記録することは生きたことを記録するに他ならない。そんな当たり前のことに気付き、違う明日がやって来るように思えるようになったのである。

明日は、いや正確には今日は我が道場の稽古は休みである。豊中市の武道場に本部道場より合気道道主の子息である道場長がやって来て関西の合気道仲間が集まり合同稽古がある。どんな社会にも世代交代は必要なことと理解するが、学生時代に世話になった道主がやって来ないことに寂しさを感じる。今日は稽古だけ参加してミナミあたりで一人酒を飲んで帰ってこようと思っている。

長い一日が終わる。一日の終りに今の世に欠けてしまったことを考え、それでも忘れてはならないことがあることを考え、考えてもどうにもならない未来を考える。
腑に落ちるような落ちないことを考えいつもベッドに横になる。この続きは夢の中なのである。


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