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顔に傷あるけし坊主(再掲)

先日、父のもと部下だった方と出会う機会があった。「ひでき君、親方に似てきたな~」と、言われなんとなくショックだった。
父が他界してもう13年過ぎる。父の他界から10年の間、母はグループホームで生活した。兄は今も愛知の障害者支援施設にいる。
父が死ぬまでの10年間、そしてそれからこれまでの13年間、都合で約四半世紀、家族の介護や看病が続いて来た。遠隔からの一人での介護・看病には無理があった。そんな状況を生み出した総責任者である父が好きではなかった。

母の半生は兄の出生を悔恨し続けることに費やされた。私には「それでいいのか、あなたの人生をそんなことだけで終わらせてしまっていいのか」と疑問を拭えることはなかった。
それに比べて父はお気楽に見えた。
当時高額な兄の治療費を稼ぐと言い長く海外に勤務し、すべては母に任せきりであった。働きながら母は一人で兄の面倒を看ていた。
父もゼネコンにいた電気・機械のプロフェッショナルであった。

長い時間は人の記憶をぼやかし、曖昧にさせる。
それは良いこと、悪いことの両面を持ち合わせると思う。
そしてそれが無ければ人はたいそう生きにくいに違いない。
父の記憶や思いも薄れながら昇華しなければならないように思う。
でも父への感情はいまだ変わっていないことを父の部下の一言で気付いたのである。

ここからは過去の記事に手を加えた再掲です。

『顔に傷あるけし坊主』

けし坊主ってわかりますか?
けしの花の実、花弁の元の果実が丸く膨らみその中に種子が残ります。
枯れたそれは振ればマラカスのようにシャカシャカと音がします。
まだ青い若いけし坊主の顔にナイフで傷を入れれば白い樹液が白い血のようににじみ出てきます。
それが阿片のもとです。
なぜか父のイランの土産に乾燥したけし坊主があり、私の引き出しに長くしまわれていました。

それが私の亡き父の思い出です。

イランで高速道路を作っていた頃と聞いていました。
延々と続く沙漠に高速道路の建設に行ったと聞いていました。
父はいつも切り込み隊長、原野に宿舎を設営して建設工事に着手する以前の準備から竣工まで現場に張り付いていたそうです。
その時は日本人のコックが来るまで父が飯を炊き、昼に部下が現場で食べる弁当を作り朝持たせていたそうです。
弁当と水筒を持たされた若い兵隊たちは数キロ毎に建てられた電柱の電装をしていました。
父は車に積んだ兵隊たちを朝一人ずつ下ろし、早い夕方に拾い帰ったと言いました。
灼熱の炎天のもと、苛酷な作業であったに違いありません。
そんな中で一人の若い職員を死亡させているのです。
夕方迎えに行くと電柱の下で倒れて冷たくなっていたそうです。
晩年まで口を開くことのなかった父の、サラリーマン人生での痛恨の極みであったに違いありません。
今では通用しない企業戦士たちの話なのです。

イランでの仕事は心身ともに辛かったに違いありません。
あの父がげっそり痩せて帰ってきたのです。
その時の土産の中にあったのがけし坊主でした。
顔に斜めのキズが数本入ったけし坊主でした。
NHKの番組で観たゴールデントライアングルで阿片の汁を顔の刻み口から垂らしてたけし坊主と同じでした。
カサカサと音のする乾いた実の中にはケシ粒が入っていました。
日本の日常から遠く離れた異国の地で厳しい生活を強いられた父にとっては、日本で食べたケシ饅頭が懐かしく手に入れたと言っていましたが、私にはそうは思えませんでした。

その存在ばかりでなくカサカサという小型マラカスから出てくる音も聞いてはいけない音、誰かに聞かれればそれで私の人生が変わってしまう音のような気がしたのです。
けし坊主をいつまでも私は机の引き出しに隠していました。
そして、二十歳で家を出たのです。
その後のけし坊主の行方を私は知りません。
間違いなく分かるのはその故郷、乾き切った台地にけし坊主は帰ることは無かったであろうことです。
雲一つない真っ青な空、灼熱の太陽のもとその美しさを誇り立っていたけしの花。
それはやがてけし坊主となり、その顔を切り刻まれ、白い血を絞り取られその骸は異国の地へ持ち去られました。
私以外、彼の存在を思い出す者はいないに違いありません。
儚いけし坊主の一生なのです。

 異国地の顔に傷ある罌粟坊主

父はいつまでもけし坊主の思い出と共に私の心の中で生き続けています。

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