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人の怠惰におもうこと

両親ともに長男、長女ではなく、この『お盆』という期間を深く考えることは無くつい最近まで生きてきた。父が年末に亡くなり、母はお盆前にこの世を去った。するとなんとなく、決められた様式に囚われることの少ない私でさえ盆や正月を意識するようになった。ならば遠い祖先に思いを馳せ、とここに書きたいところだが、あったこともないご先祖様の供養はなんとなくピンとこない。直近の両親やいとこ達、まだ姿も声も憶えているそんな親族に思いを馳せながらこんな思いを引き継いでいったらいいんじゃないかと思うのである。

子どもの頃に戦争を経験した両親の死後観や死生観てものを聞いてみたらよかったと今思う。寿命や事故、病気ではない理不尽な人間の作り出した理由でこの世からいなくなった親族や知人を失った子どもの感じたことを聞いてみたかった。持って行き場所の無い悲しみや悔しさ、憎しみが満ちあふれたのであろう。そんなことを考えれば今の世への不平不満などは知れたことのようにも思える。だから両親や両親と同世代の皆さんはここまで日本経済を牽引し、今なお頑張れるんじゃないかと思う。

この2週間ほどこれまでの普段と違う普段を作ってみた。個々の性格によるのであろうと思ったが、私には計画性という観念が希薄である。ゴールに目指してのその過程はどうでもいいのである。ゴールに到達すればそれでよく、そこまでの計画を立てる必要がないのに立ててしまい。あとで後悔することが多い。とても無駄な後悔なのである。もともと人間てのは勤勉じゃなく楽な風に背を押されやすい怠惰な生き物なのだとも思う。『アリとキリギリスの話』に出てくるキリギリスまではいかないが、まあまあそれに近いところが自分にはあるなあと、この2週間に思ったのである。自宅でゴソゴソ仕事をしながら合気道の稽古をし、NPO竹ネットの手伝いに行き、晩メシを作り、誘われるがままに夕の縄のれんをくぐったのである。

人間には楽しみが無ければ生きていくことは出来ず、活力など湧こうはずがない。その楽しみはさまざまであろう。達成感や満足感があり、それを追求する意欲のようなものが生きる力になっているように思う。
両親の戦時中の楽しみが何であったのが最近妙に気になるのである。母は東南アジアで命を落とした長兄に会いたかったと言っていた。その会いたいという願望が楽しみにも生きる支えにもなっていたのかも知れないが、もっと現実のなかでの楽しみがあったはずだと思うのである。小さな小さな人には決して言うことの無かった楽しみがあったんじゃないかと思っている。もう聞くことは叶わぬことなのだが、きっとあったに違いない。

このお盆は特にやることは決めずに時間とともに流れて行こうと思っている。日焼けを気にしながら公園の木陰のベンチに座り、ゆらゆら動く木漏れ日をぼっとながめてみたい。自宅で冷たいシャワーを浴びて涼しい部屋で昼寝をしミナミの街を徘徊しよう。
でも、それが私の本当の楽しみではない。私の達成はそれではないのである。すべては過程である。
その先にあるものはまだ分からない。これまでワサワサと生きて来た。ここでスタイルを変えることで何かが見えてくるんじゃないかと思っている。
そろそろ何かが見えてくるんじゃないかと思うのである。


子ども達を集めての恒例の流しそうめんの会、炎天下にもかかわらずたくさんの子らが集まり、自分の箸を竹を削って作りましたよ。竹林整備に関心を持つ子が出て来てくれたらうれしいですね。

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